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ネタが書ければどこへでも(2)

(前話はこちら)
■正しくピアノ・リサイタルを聴くには
ピアノやヴァイオリンのリサイタルでも先の作法をおすすめします。が、もうひとこと。
「ええ、たしかに彼女はテクニックがあるわ。
 でも、それは自動ピアノにもいえることじゃない?」
などという感想をつけ足すとなおよろしい。そして、“ソウル(魂)”という言葉を――飲み込みの悪いウエイトレスに何度も注文をクドクド繰り返すように、深い感情をこめ――あちこちへ効果的に差しはさみましょう。

この種のリサイタルでの曲目は、交響楽のコンサートより複雑なものが多いものですが、むしろその点がつけ目です。なぜなら、複雑ゆえに演奏がまだ終わっていないうちに拍手をするあわて者が必ず出ます。誰かがこういうへまをしでかしたとき、近くにいる人たちとニヤニヤ微笑をかわしあう満足――これに匹敵するのは、演奏の本当の終了と同時に拍手の一番乗りをする喜びぐらいです。けれどもこの芸当は初心者にとってたいへん危険で、誤爆度がきわめて高いといわねばなりません。
そこで時ならぬときに拍手を贈る過ちを絶対確実に避けるため、いっそ賞賛をまったくやめてしまうのが、安全かつ賢明です。これは大多数の批評家の慣用手段でもあり、あなたにも心からおすすめできます。

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このテキストののち、ほどなく『ハドック夫妻シリーズ(邦訳アリ)』が大当たり、ドナルドはまずユーモリスト作家として名を挙げます。
ハリウッドより脚本家としてお声がかかり、活躍の場をブロードウェイからハリウッドへ。同じ頃、ロバート・ベンチリーやドロシー・パーカーもハリウッドのコメディ・ブレーンとして東海岸から西海岸へ。49'erから遅れること、約90年。ニューヨークにとっては痛い頭脳流出――とは、別に誰も思わなかったようで‥‥。


ロバート・ベンチリーが役者としても活躍したのとは対照的に、ネタ作りのスタッフ側としての力量を買われ『素晴しき休日』『邂逅』『運命の競宴』、そして『フィラデルフィア物語』などブラッシュ・アップされたネタをわれわれに残してくれます。今見るとスローペースぶりに退屈なトコもありますけどね。
その頃波に乗っていた彼らの様子は後年の楽屋ウケ映画『Robert Benchly and night of the Algonquin』――この映画自体は大して面白くはないと私は思います、史的価値に関心のあるかたは、よろしければどうぞ。『Mrs.Parker and the vicious circle』ほどハデな脚色はないので、まあ史料的な価値は幾分あるかなあ――などで多少伺い知ることができます。


『Robert Benchly and night of the Algonquin』『Mrs.Parker and the vicious circle』が出たので、筆のすべりついでに言わせていただくと、アメリカの過去のコメディアン・トリビュート作品は、なぜ揃いも揃ってあんなにコメディアンをヒューマニティあふれるキャラにしたがるか?
『Man on the Moon』なんて、あれじゃ、アンディ・カウフマンが先に進み過ぎ客がついて来れなかったみたいじゃないか。
70's SNLが笑いのデフォルトであるワタクシからすると、80年代のアンディ・カウフマンは実際てんで面白くなかったんであります。ジム・キャリーの好演が勿体ないですよ、あれは。
人を笑わせることを生業とした人間が、そんなにヒューマニスティクなわけがない。人としてどこか歪んでなきゃ笑いネタなんかが搾りだせやしない。それができたから辛うじて社会適応したのになあ。



ドナルド・オグデン・ステュアートへ話を戻します。
ハリウッドでの大当たりのあと、ドナルドは赤狩りに引っ掛かかってしまいます。それまで禁酒法もヘイズコードもスラスラかわしネタ書きを続けたドナルドでしたが、今度はジョークが通じなかったようです。その狂騒ぶりにアホらしうなったか、早々にハリウッドからロンドンへ。
ロンドン時代は『フィラデルフィア物語』のイメージが強かったのでしょうか、映画・テレビの脚本でもラブロマンスものばかりが残っており、あまり大振りなネタを残してくれていません。
が、『Full Cast and Crew for Love and Death』で久しぶりにウディ・アレンのコメディ・ブレーンとして参画。ネタ作家としてはこれが遺作となります。


「ネタ書きで飯が食えればどこでもいいじゃん」 ドナルド・オグデン・ステュアートの魅力はそんな節操のなさというか身軽さだと思います。洒落てりゃいいのだよ、どこであろうと。
2005.07.24初出

ネタが書ければどこへでも(1)

ドナルド・オグデン・ステュアート(Donald Ogden Stewart)といえば、まずはなんといっても『フィラデルフィア物語』。ヘイズ・コード縛りのハリウッドのさなか、小洒落たラブコメを書いたスクリプターとしてその名を残し、その作品がスクリューボール好事家(たいへん少数派だとは思いますが)間では、定番中の定番コメディ映画であるのは、ご承知のとおり。


ところで。
ドナルド・オグデン・ステュアートが当初お笑い物書きとしてデビューしていることをご存知の向きが割に少ないことを最近知りました。彼が決してポッと出の一発ロマンス・ネタ屋などではなく、根っからのコミカル・スクリプターであることをお伝えしたく、本日は「物書きとしてのドナルド・オグデン・ステュアート」を私訳でちょい見せご案内。

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音楽鑑賞にあたって――いや、このほうがもっと肝要ですが「音楽鑑賞のふりをする」にあたり、初心者は2つの基本的な事実をまず覚えておかねばいけません。
1つ目は、これが最重要、ロシア語のWはVのように発音する、という事実。
2つ目は、ラフマニノフの娘がヴァッサー女子大にいる、という事実です。

「なんだ簡単じゃないの」とおっしゃるでしょう。
そう。
この2つの公式を使うだけでも、あなたの音楽からうける喜びは飛躍的に増大します。習熟すると、たといあなたが短三和音を「うら若い森の精」と勘ちがいするほど凄まじい音痴でも、お連れの男性を充分煙に巻けます。

加えてもう1つの大切な心得を申し上げれば、1870年以後に作曲された音楽に対し決して熱狂していない素振りを頑に見せることです。
これらの原則を注意深く守れば、大新聞の音楽批評家の意見もあなたと一致することもわかり、つねに慢心と自己満足を味わえます。

■正しくオーケストラを聴くには
演奏会場に着いたら、まずは、オーケストラがベートーヴェンの第五を演奏してくれたらいいのに、という願望を口にしてみてください。
もしあなたのお連れが「第五って?」と聞き返すかようなレベルならば、もうしめたもの。大船に乗った気でいても心配ありません。けれども、もし相手が「ぼくもそう思うよ」と言ったらこれは危険信号ですから、慎重な対応を心します。

つぎにプログラムをざっとながめましょう。
もしお連れの男性が男前で交際を深める価値があるようなら、こう言うべきです。
「あら、今夜はあんまりおもしろそうなプログラムじゃないわね。
 でも、ジョージ――来週の木曜日の曲目をごらんなさいよ!すてきだわ」
もしジョージが尻ごみするようなら、タイミングを見計らいもうひと押し――たとえば、ヴァイオリンとチェロの“アバッショナート(情熱的な)”楽節の演奏時あたりに、いろいろと試みてはいかがでしょうか。

演奏がはじまりましたら、注意力のすべてを“だれが雑音(ひそひそ話や咳)を出しているかの発見” にふりむけねばなりません。そんな輩を捜し出せたら、すぐに「シーッ」と注意します。それでも迷惑な行為をもし相手が続ければ、つぎの「シーッ」とのときには鋭く厳しく睨みつけましょう。もし手許にロルネットがあれば、それを使うとさらに効果的。
この行為であなたは近くの人びとに感謝されるだけでなく、自分の地位を音楽的にも社会的にも高めることができます。この“静粛”演技の達人は、決して下層階級から出ないからです。

最初の曲目が終わったら、フ~ンと軽くつぶやき、ゆっくりと首を横にふるのが正しい作法です。

そのあとはどんな感想を述べてもかまいません。たとえば
「そうね、メンデルスゾーンは俗受けするから」
とか
「ロシア人が作曲したみたいに、なんとなくしっくりしないわね」
などなどですが、ここでは後者のほうをオススメします。当然相手は「だけど、きみ、チャイ“KOW”スキーは嫌いじゃないだろう?」と、まるでその作曲家が牝牛であるかのように第2シラブルを発音し聞き返すでしょう。そこで、あなたは待ってました!こう答えればよいのです。
「ええ、そういえばチャイ“KOFF”スキーはわりにいい曲を書いたわね――
 もっとも、彼のはどれもニューロティックでチュートン的だけど」
かならず“V”を強調するのをお忘れなきよう。

つぎのブログラムは、たぶんソリストのものでしょう。
たとえばそれがコロラチュラ・ソプラノの独唱である場合、あなたはまず第1ステップとして、人間の声にあまり関心がないことを声明しなければなりません。理由を問われたら
「交響楽つまり純枠音楽の美しさに比べれば、声の曲芸など聞けたものではない」
などと言ってください。すると、連れの男性は煙に巻かれつつ「ではどんな種類のソリストならいいのか」などとあなたに聞き返す。
  答――「そりゃピアノ・コンチェルトよ、もちろん」
  問――「で、きみのいちばん好きなピアニストはだれ?」
  答――「ラフマニノフ」
 それから、相手に息つくひま与えず、追撃のダメ押しです!
「ラフマニノフのお嬢さんがヴァッサー女子大にいるの、ご存じ?」

これぐらいでまあまずそこいらの男性相手なら充分ですが、なんならコンサートの終わりにタイミングのいい深遠な爆弾を投じ、この哀れな男性の息の根を完全に止めてしまう手もあります。ここでは、わたしがよく使う方法を紹介しておきましょう。低くため息をつきながら、こう聞こえよがしにつぶやきます――「やっぱり――ベートーヴェンはべ-トーヴェンねえ」

サゲは情ない露雫

出どころは確か米朝全集のライナーノーツでした。

米朝演じる『持参金』のサゲは、20円の借金の始末をうまくまとめ
   「あはは!ぐるっとひと回りしまんにゃわな!昔の人はやっぱりえぇこと言ぅてまんな」
   「ほんに金は天下の回りもんや」
このサゲは米朝さんがこしらえた、と書いてあったように覚えています。

なんでも元噺にはまだ続きがあり、ブサイクな傷モノのおなべさん、その日のうちに死んでしまうだか虐げられるだか、くすぐりも少ないうえ、気ぃ悪い流れがあったとか。
米朝さんは商品としてあまり良ろしうないとお考えになり、借金の始末がストンと落ち着いたところで噺をぶった切り、「天下の回りもん」と付け足したらしい。
キレイで明快なサゲになり、良いご判断だと思います。

時折、半可通なワタクシなどでは「なんや、ようわからんサゲ」な噺があります。博識な落語通なら、その面白味をも堪能されるのかもしれません。
たとえば『高尾』。三代目春團治が有名な、本サイトではすっかりお馴染の、あれです。
(この動画では「屁をこいて 可笑しくもなし ひとりもの」の三代目定番マクラがなく、ちょっと寂しい。)

   「表の戸をドンドン叩くは そちゃ女房 おちょねじゃないか?」
   「アホらしぃ。隣りのお梅。かんこ臭いの、お宅かえ?」

このサゲがわからない。
文意はわかるんです。紙子臭い、つまりこげ臭いのアンタんトコやろ、小火でも出してんのちゃう?の意です。同趣の江戸落語『反魂香』でも同じサゲです。だがこのサゲの面白味がわかりません。

かんこ臭いは焦げ臭い、転じてキナ臭い話・尾籠な話、らの含みが、かつてはあったようです。また『高尾(反魂香)』元ネタ芝居の幾つかには艶噺も混じっています。そのあたりの含みがあるのかもしれない...などと邪推もしてみたり。
でもやはり何をほのめかし面白いのか、まで辿り着くことができませんでした。
あるいは「はんごんこう」と「かんこくさい」のかなり苦しい地口?にしても、江戸落語でサゲの意味が通じない。

結局今の処「隣のかあちゃんが“アンタのところ、小火出してないかい?”と入ってくることで、それまでおちょね妄想モード全開だったわれらが下駄屋の喜六氏、にわかに日常へひき戻されましたとさ」あたりのサゲだと、一応暫定的にニュアンスを理解しておくことにしています。
しかしそれでも面白く判りやすいサゲとは、決して言い難い。
米朝改作『持参金』のような改善サゲを、次世代噺家のみなさまにおかれましては、ぜひ挑戦いただきく思います。

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たとえば『算段の平兵衛』。
今でこそ演るかたもぽつりぽつりと出てまいりましたが、この噺もまた永く演者が絶えていました。わたしどもが今耳にできる『算段の平兵衛』は、米朝が取材し掘り起こし、こしらえ直したリメイク・バージョン。その翻案家・編集者たる米朝さんご自身いわく
    この噺、誰も演らんようになったのは
    演らんようになっただけの理由が、やっぱりありますわ。
    まず第一に。
    あんまりおもんない。
...あ、いや、その、それ言うたら、身もフタもおまへんがな師匠。一応直後に「まあ、ところどころ、おもろい処もあるんです」とフォローを入れておられます。

    「あの徳さんちゅうやつ、相当ええ金づるを…。
     なんや平兵衛の痛いとこ、握ってるに違いない。
     何握ってるか知らんけども、相手は算段の平兵衛や、こんなことしてたら
     しまいには、どえらい目、遭いよるで。」
    「さぁそこが、めくら平兵衛に怖じず、やがな。」

このサゲがとても不満です。
めくら蛇に怖じず、の語呂合わせなのはわかります。だが「...なんやねん、その噺。」な片付けかたが、どうも腑に落ちません。
米朝さんもそう感じる節がおありだったようで「取って付けたよな頼んないサゲ」と、どこかで評されていらっしゃるとか。

いっそお庄屋さんの遺骸がぼろけちょんになり平兵衛が50両をせしめたあたりで、新しいサゲを加えてはいかがでしょう。
米朝改作『持参金』のような改善サゲを、次世代噺家のみなさまにおかれましては、ぜひ挑戦いただきたいと思っています。
  

笑わせる文章のいらなくなった時代に

昔『いたずらの天才』の翻訳本が割合長く売れたことがあった。いわゆるプラクティカル・ジョーク集の類の本だ。たぶんもう30年は経たのではないかと思うが、いまだ『いたずらの天才』ほど傑作なジョーク本には、とんとお目にかからない。
おそらく冗談の通じない連中がハバを利かす世となったか、ジョークなしでも毎日が楽しく過ごせるおめでたい人が増えたのだ。
どちらの世に変わったにせよ、私のようなタイプの人間には住みにくい時流となった。

『いたずらの天才』で一躍有名になる作者H.アレン・スミスは、新聞記者あがりの作家だったように覚えています。この頃まではまだ人が文章で笑ってくれた良き時代の名残りがあったと見え、『いたずらの天才』のほかにも愉快な文章を多く残してくれています。
それらの文章群ももはや版権買取の対象にすらならないでしょう、手すさびに、H.アレン・スミスの私訳でもご披露いたします。

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しばらく前、ノーベル賞作家のジョン・スタインベックが、自分の生まれた国を改めてかみしめたいなどと言い、アメリカ横断自動車旅行のいきさつを文章にしたことがあった。途中オレゴン州の淋しいハイウェイで車が故障してしまったのだが、そのときの困惑状態を彼はこんなふうに書いた。
   …あの古くからの法則が、またぞろ働いたのだ。
   この法則によると、こっちがいちばん必要なときにかぎって町から町までがべらぼうに遠い。
のちにある批評家が、スタインベック氏はフェトリッジの法則にやられたのだ、といった。
そうではない。
スタインベック氏とべらぼうに遠くにある町との間に作用したのは、ガンパースンの法則である。
この法則によると、駐車スペースの空きはつねに道路の反対側にある。車の窓からタバコの吸いがらを捨てるだけで猛烈な山火事を起こすことができるのに、暖炉の中では、乾いた薪を山積みし石油までふりかけても火をおこすのに1時間半はかかる。よく肥えた土にまかれた草の種は肥料と水をやってもなかなか育とうとはせず、アスファルト舗装の道路へ風で運ばれてきたわずかな種は、割れ目を見つけそこに根づきはびこる。
これがガンパースンの法則である。

ガンパースンの法則がはじめて成文化されたのは『チェンジング・タイムズ』という雑誌の中で、そこではこうものものしく定義されている――<予想される好ましい可能性と正反対の事態は、.その種の偶発事が最大の困惑をもたらすような時を選んで出現する。言いかえれば、予想される好ましい可能性の最終結果は、その好ましさの程度に反比例する>
これは疑似科学的な法則であって、パーキンソンの法則やマーフィーの法則とはなんの関係もない。パーキンソンの法則は、おもに法人の世界での人事問題にあてはまるものであり、また、ミサイル技術者のあいだでよく知られているマーフィーの法則は“失敗する可能性のあることは、かならず失敗する”というものである。


ところでガンパースンの法則とフェトリッジの法則のあいだには、交通事故の過失致死に関する法律と、第一級謀殺に関する法律の関係に近いものがある。
スタインベック氏がオレゴン州のハイウェイで経験したジレンマは、ガンパースンの法則が作用した実例だ。フェトリッジの法則は、そのあとの時点で乗りだしてくる。

かりに、スタインベック氏の車が、ガチャガチャとちょうどドラムをたたいているような絶えまなく気になる騒音を発生しはじめた、としてほしい。どこからその音が出てくるのかつきとめられない上に、音はますますうるさくなる一方だ。
しかたなく、オレゴン州のハイウェイをそのままガチャガチャ走りつづけたすえ、やっとのことで町に着き、サービス・ステーションを探しあてる。ところが、そこへ車を乗り入れたとたんに、ガチャガチャ音はぴたりと止まる。整備工が車を借りブロックを一周してみても、やはりなんの音もしない。こんどは車を町の外まで出し、でこぼこの田舎道を走ってみる。それでも、カチャとも音がしない。
フェトリッジの法則の作用で起きるつむじ曲がりな現象としては、これが最もありふれた形態だろう。

この作用は実にあてになるので、わたしなどは、車がガチャカチャいいはじめると、いつもサービス・ステーシヨンヘ直行し、中でぐるっと向きを変え、熟練した整備工の存在を車が感じとるまでちょっと待ってから、そのまま家に乗って帰る――サービス・ステーションの係員に声をかけることさえいらず、これだけで故障は、直る。


フェトリッジの法則は、やさしい言葉でいえば、当然起こると思われている重要なことが、特にみんなが見ているときにかぎって起こらず、逆にとうてい起こらないと思われていることが、特にみんなが見ているときにかぎって起こる、というものである。
この結果、飼い主の前では1日に1000回も棒を跳び越える犬が、近所の人が見物にきたときにはさっぱり跳び越えない。また、両親の前では「ダーダー」と口をきく親ばか自慢の種の赤ちゃんが、友人たちが呼び集められると、黙りこむか火のついたように泣きわめく。

フェトリッジの法則という名前の由来になったのは、NBCにつとめていたラジオ放送の技術者、クロード・フェトリッジである。
1936年のこと、このフェトリッジ氏は、南カリフォルニアのサン・ファン・キャピストラーノ教会から、有名なツバメの大群の飛行を実況放送しようと思いついた。よく知られているように、このツバメたちは、毎年10月23日つまり聖ヨハネの日に教会を去り、そして翌年の3月19日つまり聖ヨセフの日に教会へ帰ってくる。フェトリッジ氏の企画は、10月23日に飛び去っていくツバメたちの激しい羽ばたき音を放送しようというものだった。
NBCは多大の努力と経費をかけ、機材と要員を現地へ送りこんだ。さて全国の聴取者がこの感動的で神秘的な出来事をかたずをのみ待ちかまえると、かんじんのツバメたちが、ただの意地悪さからかそれとも悪魔にとりつかれたのか、予定よりも一日早く出発をすませていることが発見された。
こうして早くとやにつきたがった渡り鳥の群れのおかげで、クロード・フェトリッジは不朽の名をとどめることになったのだ。


テレビ受像機も、しばしばフェトリッジの法則に作用されることはいうまでもない。
友人から、こんどテレビに出演するからぜひ見てくれといわれるたびに、わたしは内心うめきをもらす。また金がかかりそうだと予想がつくからである。友人の出るショーがはじまったとたん、ブラウン管がいかれるのだ。
ある晩、うちへきていたジャッキー・グリースンが、2、3日前に録画した彼のシヨーを見たがったことがあった。わたしがスイッチを入れると、ヒューン、ブツブツ、ポンと音がして、画面がぱっと光ったかと思うと真暗になってしまった…

こうなることは最初からわかっていたのだ。

ときにはまた、テレビがちらちらし画面に雪が降りネクタイ柄のようになることもある。そこでテレビを切り、修理屋を呼ぶ。修理屋が5キロもむこうから駆けつけてくれて、スイッチを入れると、明瞭きわまりない画像が浮かびあがる。コントラストもばっちり、こんなすてきな映りぐあいは、いままで見たこともない。
いつもこうなることに決まっているのである。
永久に果てしなく。

わたしの家は北の厳寒地帯にある。3年つづけて妻とわたしは冬のあいだ家をあけ、もっと暖かい気候のところへ避寒旅行にでかけた。いつも帰ってくるたびに、近所の人たちはわたしたちをからかう。この冬は天気がよくて暖かく、めったに雪も降らなかったというのだ。
そこで4年目の冬、旅行をやめ家にいることにした。
すると11月の末から3月までひっきりなしの猛吹雪。隣人たちにいわせると、ここ30年間で最悪の冬になってしまった。フェトリッジの法則が、気象の分野で作用したのだ。

コネティカットにいる友人は、7000ドルをかけ自宅にプールを作ったところ、夕方からあとはとても使い物にならないことがわかった。近くの林からワンサと蚊が攻めよせてくるのだ。
そこで、彼は綱戸で完全武装したあずまやを建て、中に電灯をつけ、くつろげる家具、小さなバー、それに冷蔵庫まで備えつけた。
最後の釘が打ちこまれ、最後のバスケット・チェアーが持ちこまれたとたん…蚊の大軍はそのあたりからいっせいに姿を消しその後一ぴきも見つかっていない。これまたフェトリッジの法則。

うちの近くに住んでいるある魅力的な女性は、毎朝ご主人を車で鉄道の駅まで送る。ごくときたま寝坊をし着替えの時間がなくなることがある。そんなときはナイトガウンの上にコートをひっかけ、寝室用スリッパをはいたままで駅へ向かう。ところがそんなときにかぎり、フェトリッジの法則が彼女を悩ませるらしい。
一度はハイウェイで他の車とフェンダーをぶつけあい、寝間着のままで警察に行かなければならなかった。また二度目には駅の広場で車のエンジンが故障し、スリッパをつっかけ髪にカーラーをつけたまま車の外に出なければならなかったそうだ。
最近聞いた話では、外出着のままで寝ようかと考えているらしい。

羅針盤(コンパス)には32の方位がある。つまり、グレープフルーツをスプーンですくって食べるとき、しぷきの飛ぷ方角が32あるということだ。しかし、ルイ・サトラーという化学の教授は、つねにそのしぷきがまっすぐに人間の目玉を狙って飛ぶことを発見した。
サトラー教授は、フェトリッジの法則が支配する領域の周辺をさぐりつつある。
それによると、トーストが床に落ちるときはかならずバターを塗った側が下になり、プレスしたてのスーツを着ればかならず雨が降るし、最後の一本のマッチでパイプに火をつけようとすると、かならず突風が起きるという。

フェトリッジの法則は、歯科医学の領域でも強く働いている。
わたし自身の場合を例にとると、猛烈な歯痛が起こるのは決まってどの歯医者もゴルフに出はらっている日曜日だ。
わりあい最近のことだが、週末からはじまった歯痛が、月曜日の朝になってもまだディーゼル機関車のように疼いていたことがあった。歯医者に電話を入れ、非常事態だと訴え車で歯医者へ乗りつけた。ところが階段を登る途中、とつぜん痛みが嘘のように消えてしまったのだ。
治療室の椅子にすわったときには面喰らうやら恥ずかしいやら、どの歯が痛かったのかと聞かれてもはっきり答えられない始末だ。レントゲン写真を撮っても、それらしい影は出なかった。もっとも、カメラをわたしの脳に向ければいくつかの影は見つかったかもしれない。
クロード・フェトリッジの法則にも、ちゃんと取り柄はある。腹の立つことも多いが、とにかく歯痛は治すのだから。
Harry Allen Smith, "Fetridge's Law Explained"
-----Don't Get Personal With A Chickenを私訳。一部適宜改行を挿入。

2005.03.02初出

すべてのお笑い文はバックウォルドとネタかぶり(3)

(前話はこちら
わたしは最近のコラムで潜在意識に呼びかける声のことを書いた。今回は呼びかける声について書く。


今やわれわれは録音ガイダンスの時代に入りつつある。先日所用でアトランタに飛ぶまでは、どれほど広く行きわたっているかに気づかなかった。
飛行機からおりたあと、延々と歩かされ長いエスカレーターで地底に降ろされ2両連結の列車を待たされ数度停車したあとでたどりついたもうひとつの長いエスカレーターで地上に出され、やっと荷物を受けとれた。
この列車が停まったとき「ここはBステーションです。お乗りになったら中ほどへお進みください」という声が聞こえた。
おっしゃることごもっとも、ではあったものの、人の群を追い車内に乗りこもうとしたとき機内持込み用鞄がつかえてしまったので、列車に引きずられないようにドアを手でおさえた。すると、例の声がいったのである。これは決してわたしの作り話ではない。

「だれかがドアをおさえ、発車の邪魔をしています」

「仕方ないじゃないか!」わたしは叫んだ。「鞄がつかえてんだ!」

けれども声の主は怒っているように聞こえた。「だれかがドアをおさえています。発車できません」

やっと鞄を引き抜いて、ぎゅうぎゅう詰めの車内に乗りこんだ。みんながわたしをじろじろ見た。わたしは照れ笑いをうかべ、わたしのせいじゃないよ、と弁解した。何人かの乗客から明らかに敵意のこもった視線を向けられるハメになった。
また声がいった。「Aステーションが近いですからドアのそばに立たないでください」
「ドアのそばになんか立っていないよ!」と、わたしはスピーカーに向かってどなりつけた。「みなさん、わたしはドアのそばに立っていますか?」ほかの乗客はうんざりして顔をそむけた。
Aステーションに到着するころ、わたしはドアのそばに立たずにどうやって列車からおりようかと焦っていた。プラットホームにおりた直後にドアは閉まった。


それからレンタカーを借りにいった。借りたのは新車のセダンで、エンジンをかけると、ダッシュボードから声が話しかけた。

「安全ベルトを締め忘れています」

それはまぎれもなくさっきの列車でわたしを叱りつけたのと同じ声だった。わたしは急いで安全ベルトを締めた。声がくりかえした。

「安全ベルトを締め忘れています」

わたしはいったん締めたベルトをはずしてもう一度締めなおした。

「安全ベルトを締め忘れています」

このしつこい声をさらに2度聞かされたあとで、わたしは係員に呼びかけた。「この車、安全ベルトが締まってないと、何度もくりかえしてるよ」
「気にしないでください」と係員。「3日前からずっとそうなんです」
わたしは車でホテルへ向かった。ホテルに着くころにはダッシュボードを拳で叩きつづけ、へこまんばかりの状態になっていた。


外壁の見えるエレベーターが昇り降りするバカでかいガラスの温室みたいなホテルにチェックインした。エレベーターに乗りこむとたんに、またあの声。
「エレベーターのなかは禁煙です。
 ボタンは一度だけ押してください。
 このエレベーターは屋上ガーデンへは行きません。屋上ガーデンへおいでのかたは、ロビーの反対側のエレベーターをご利用ください」
「わたしは屋上ガーデンなんか行かないし、煙草も吸っていないぞ!」と怒鳴ると、乗りあわせたカップルはわたしをちらと見てそそくさと降りてしまった。


ようやく部屋にたどりつきドアをロックした。まず最初にやったことは、スピーカーを捜すことだった。ところがどこかにあるとしても、それはじつに巧妙に隠されているようだ。
つぎにルームサービスに電話した。録音された声が答えた。「ルームサービスの電話はすべて話し中です。手が空いて注文をお受けするまでお待ちください」ガチャン!わたしは受話器を叩きつけた。
テレビをつけた。またしても同じ声。「火災が発生したときは、以下の指示に従ってください‥‥」バチン!テレビを消した。


もう寝るしかなかった。午前7時のモーニング・コールを頼んだ。翌朝電話で起こされた。「午前7時です」「ありがとう。お天気はどうかね?」「午前7時です」「もしもし。こちらは1209号室の客だ。だれかいるか?1209号室の客だ。だ・れ・か・い・る・かぁぁぁ?」
ふたたび例の声、「午前7時です」やがてカチと電話が切れ、静寂が訪れた。
だれもいなかったのだ。
(Art Buchwald "I think I don't remember"; Putnam Pub Group, 1987より私訳。適宜改行。
訳にあたり文藝春秋刊『コンピュータが故障です(永井淳・訳)』を参照。)

あまたあるアート・バックウォルドのネタの中から3本をご覧いただきました。
このサイトをご覧のかたでアート・バックウォルドを全然知らないのはおそらくごくごく少数だとは思いますが、一応ご紹介しておきますと、アート・バックウォルドは新聞コラムニストです。
「政治風刺のうまいコラムニスト」と一応紹介されることの多い人ですが、上の文を読んでいただければおわかりのように「笑えるネタならなんでもアリ」の文字どおりスーパークラスのユーモリストです。現在世界でも屈指の有名なコラムニストと言ってよいでしょう。


1000ワードていどの中で、あるときは本人があるときはその折々の大統領があるいは芸能人が俳優がどったんばったんするコラムを、半世紀に渡り一度とて休載することなく続けています。まさにコラムを書くために生まれてきたジャーナリストのひとりと言えましょう。
それだけの多量のユーモア・コラムを休むことなく輩出し続けているのです。とどのつまりどんな面白いネタを思いつきしたためたところで、新しいネタだ!とハシャぐのは作者とそのとりまきだけであって、必ずバックウォルドがいつか書いたネタとカブっていると思っておくべきでしょう。
ちなみにアート・バックウォルドはラッセル・ベイカーとなかなか懇意なようで、互いのコラム内で相手を「くだらないことばかりさらけだして小銭を稼ぐバカコラムニスト」と揶揄しあえる仲のようです。


不思議なことに、アメリカの矮小模造品づくりならば何でもござれのわがニッポンにおいて、どういうわけかアート・バックウォルド・タイプの新聞コラムニストはいまだ登場していません。
よもやこんにち「新聞は真実・事実を報道している」などと思っている読者層が、さほど居るとは思えませんし、おそらくこのテのジョーク・コラムを受け入れる読者層が、ニッポンには少ないのでしょう。
2005.11.19初出

すべてのお笑い文はバックウォルドとネタかぶり(2)

(前話はこちら
新聞報道によれば、サブリミナル・メッセージは今や小売店で流される音楽にまで及び、購買促進に一役買っているという。得意先の依頼で数社が制作する音楽には、客の脳に働きかけ大して買う気もない品物まで知らず知らずのうちに買うよう仕向けるメッセージが隠されている。
わたしは地元のあるショッピング・センターへ行くまで、この情報に関し懐疑的だった。売場に流れる音楽は、客の休日気分を煽るクリスマス・キャロルだった。チョコレート・チップ・クッキーを買おうと立ち止まると、突如としてなにかがわたしにとりついた。スピーカーから「We Wish You Are Christmas」のメロディがにぎやかに流れる中、わたしはだしぬけに

「下着」

という言葉を口に出していた。列を作っていた人々が一人残らずわたしを見た。わたしは後ろに並んでいる男の襟をつかんでいった。「下着を買わなくては!そう!下着だぁ!」
男はわたしの手を払いのけた。「じゃなんでチョコレート・チップ・クッキーの列に並んでるんです?紳士用品店へ行きなさいよ」


わたしは通路を猛スピードで走り抜け、制服のガードマンを呼びとめた。「下着だ!」と、彼に向かって叫んだ。「下着をくれ!」
ガードマンはわたしを逮捕すべきか、それとも案内すべきかと迷っていた。やがてセンターのいちばん端にある大きなメンズ・ウェアの店を教えてくれた。
入口に立っている2人の店員がにやにや笑っていた。1人がもう1人にいった。「またおいでなすったぞ」そして、わたしが話しかけるよりも早くこういった。「左手の3つ目のカウンターです、ただし番号札をもらって順番を待ってください」


下着売場はわめき叫ぶ客でごったがえしていた。
わたしは隣の男に話しかけた。「この分じゃ順番前に売りきれてしまうかも‥‥下着が買えなかったらどうしよう‥‥」
「どうしても必要なのかね?」と、男がきいた。
「そうは思えないんだが、チョコレート・チップ・クッキーを買うために列に並んでいたら、だしぬけにどうしても下着が欲しくなったんですよ」
「いや実はわたしもピザを買いにきたんだが、やはり同じ衝動にとりつかれましてね」
わたしの番号が呼ばれ、ジョッキー・ショーツとアンダーシャツを50着ずつ買いこんだ。それ以上は売ってくれなかったのだ。


店から出たところで、木炭で子供たちをスケッチしている絵描きに目をとめ立ち止まった。絵を見ている間、だれかが歌う「ジングル・ベル」がスピーカーから流れていた。
頭のなかに“中華鍋”という言葉がぱっと浮かんだ。わたしは憑かれたような眼つきで中華鍋を売っている店を捜しはじめた。案内所へ駆けてゆくと、こっちが用件を切りだす前に案内係の女性はこう言ったのだ。「中華鍋はこの建物の反対側のデバートの地下にございます」
「‥‥どうして中華鍋が欲しいとわかったのかね?」
「『ジングル・ベル』が鳴りだすとみなさん中華鍋をお求めになります」
「つまり『ジングル・ベル』にはメッセージが隠されているってことかね?」
「もちろんです。今日は中華鍋ですけど、昨日は床ワックスでした」
「中華鍋は必要ないんだよ」
「でしたら手で耳をおふさぎください、そうすればメッセージが届きませんから」
「‥‥『ジングル・ベル』のつぎは、なに?」
彼女は予定表を見た。「『ホワイト・クリスマス』とホーム・コンピュータですね」
「ホーム・コンピュータも必要ないんだけどね」
「ビング・クロスビーが『ホワイト・クリスマス』を歌いだすまでは、みなさんそう思っていらっしゃいますよ」
「チョコレート・チップ・クッキーを買う暇はあるだろうかね?」
「なんともいいかねます。『ホワイト・クリスマス』のつぎは『聖しこの夜』で、センターのはずれで売っている中国製の手織り絨緞に殺到する予定だ、とだけしか申し上げられません」
[つづく]

すべてのお笑い文はバックウォルドとネタかぶり(1)

かかってくるのはたいてい夜の10時か11時ごろ、たぶんそのときあなたは寝ているかテレビを見ているか入浴中。電話が鳴りだし、いつまでもいつまでも鳴りつづける。子供たちが外出していることを思いだし、あなたはあわてて電話に出る。
「もしもし、もしもぉぉぉし!」あなたは受話器に向かって叫ぶ。
するとこの声(たいていは男の声だが、女のこともある)が聞こえる。「こちらはブランク家具店でございます。家具の張替え、居間のカーテンのお取替えなどのご用がございましたら、信号音に続いてあなたの電話番号をおっしゃってください。明朝、当店のセールスマンがお電話をさしあげます」


このいやらしい勧誘電話がアメリカ全家庭を侵略しつつある。
安眠は妨げられ、談笑中に呼びだされ、子づくりまで邪魔されるこの脅威から、だれ一人安全ではいられない。かたやこのいやらしい勧誘電話の主はというと、どこかの暗い部屋でインチキくさいサービスや定期購読契約を売りつけたり、チャリティ、政治献金、保険、金貨、さらにはお員得の電話機器まで売りこむ。
しかもそいつは人間ではない。
いやらしいコンピュータ――あなたの声が聞えると同時にしゃべりだし、あなたが電話を切ると同時につぎの番号をダイアルするようプログラミングされたコンピューターなのである。電話帳に載っていない番号も、このいやらしい電話コンピュータからあなたを護ってはくれない。ヤツは番号順にかたっぱしから電話をかけまくり、30だか40だかのいやらしいメッセージを吐き散らす。
この新版ジョージ・オーウェル・フランケンシュタインに仕返しするにはどうすればよいか?
方法がひとつだけある。
忍耐と、ちょっとした探偵の資質を必要とするが、以下は最近わたしがあるいやらしい勧誘電話に仕返しをしてやった顛末だ。


まず電話を切らずメッセージをおしまいまで聞いた。その声はわたしにある雑誌の予約購読をすすめた。信号音を聞いてから購読を申込めば、10000ドルの賞金が当たるチャンスを与えられるという。その雑誌名をメモした。
つぎの日にその雑誌を買い、発行者の名前を調べた。
それから雑誌社に電話し、発行者の奥さんに花を送りとどけたいという口実で、自宅のアドレスを聞きだした。秘書が教えてくれた住所を手がかりに、ニューロシェルの彼の電話番号をつきとめるに至った。


その夜12時を待ち第1回目の電話をかけた。
「こんばんは」わたしは努めて明るい声でいった。「こちらはアクスモ・マフラー・カンパニーです。わが社の最新のマフラー、車の寿命が続くかぎり保証つきのマフラーのとりつけを無料で見積りますが、いかがですか?こんな機会はまたとありませんよ――」
雑誌の発行者はガチャンと電話を切った。


わたしは30分待ち、また電話した。「夜分お邪魔して申しわけありませんが、わたしどもはただ今ニキビ研究所の依頼でニキビについて調査をおこなっているところです。ニューロシェルに住むご親戚かお友達で、ニキビでお悩みのかたはいらっしゃいませんか?」ふたたびガチャン。


わたしは30分ごとに電話攻勢をかけた。通信販売で屋根材を売りこみ、合衆国初代大統領の名前を答えられたらドッグ・フードーケースを原価で買えると勧誘し、芝生用の肥料は要らないか、無税のメキシコ債券に関心はないかとたずねたりもした。


4時になると、相手は底抜けの阿呆と化していた。
「なんでこんないやがらせするんだ?」と、彼はすでに半泣きだ。
「決まってるじゃないか」わたしはとっておきの憎たらしい声で答えた。「こっちも同じ目にあわされたお返しだよ。そっちがコンピュータの勧誘電話をストップさせれば、こっちも電話攻勢をストップする」
「警察を呼ぶぞ!」と、彼は金切声をあげた。
「信号音が聞えたら警察に電話してください」
電話の向うで雑誌の発行者が泣いていたことを誓ってもいい。


あなたも同じ手を使いたかったら、遠慮なくどうぞ。そしてコンピュータを唆し勧誘電話をかけさせた人物が夜不在だったら、1時間おきに会社に電話をかけ続けてやりなさい。
政府がいやらしい勧誘電話を禁止しないなら、われわれはみずからの手で裁きをおこなわなくてはならない。自由なアメリカ国民の1人1人が、受話器にこう叫ぶときがきたのだ。
「信号音を鳴らしたきや鳴らせ!もう絶対に電話に出てやらんぞ!」
[つづく]

御堂筋線沿線 地名の由来

少し前、ガジェット通信の山手線沿いの地名の由来を調べてみた 日暮里の由来は「ナポリ」だった?という記事へ、ツイートを足しました。

高田馬場の由来は老舗「高田理容店」に決まってるじゃないか(嘘)

別に何の反応もなく、流されてしまいました。しくしくしく…。
でも個人的には面白かったので、他の地名も調べてみました。
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大阪のすべて01【江坂】 北摂地域でお好み焼き屋を開き、一代で巨額の富を築いた「江坂屋甚兵衛」にちなむ。


【東三国】 北摂地域で和菓子屋を営み、一代で巨額の富を築いた「三国屋喜六」にちなむ。
三国屋は落雁、雲平、有平糖、煎餅などが特に名高かった。


【新大阪】 「新しい大阪駅」の意。
大阪の語源は小倉百人一首にも歌われた「逢坂山のさねかずら」の逢坂山から。
当時の大阪は逢坂山のふもとにあった。


【西中島南方】 「西中島」と「南方」の両地名を合わせたもの。
昭和初期、絶大なローカル人気を誇ったが、全国区を果たせなかった伝説の漫才師「西なかじ・まみなみか」発祥地から。
最後に「た」を付与するのは当時の流行。


【中津】 昭和初期、絶大なローカル人気を誇ったが、全国区を果たせなかった伝説の漫才師「中田なかず・とばず」発祥地から。
駅構内には今も記念碑が残る。
また中津駅東口には「鳥羽津」の地名が残存する。


【梅田】 昭和初期、絶大なローカル人気を誇ったが全国区を果たせなかった伝説の漫才師は、なんら関係がない。なんとなく昔からそう呼ばれている。
一代で巨額の富を築いた「梅田屋清八」に、無理やりちなませても可。


【淀屋橋】 寛永年間頃の白物家電豪商「淀屋」が私財を投じ架けた橋に由来。
かつての本家は現在のヨドバシカメラよりも南にあった。


【本町】 あまりの壮大な都市計画に、市民から「嘘臭い」と不評だったため、「ほんまの町」と大阪市・第一次市域拡張時に強制的に町名変更。今日に至っている。


【心斎橋】 大震災の記念碑から。
験担ぎから「心斎」の文字を当てられたのは明治初期頃と言われる。
後世、郷土史家により京商人・美濃屋心斎のいわれが付け足された。


【難波】 町村制以前の村名は「番号村」。昔からの歓楽街で、番号札の販売所があったことから、このように呼ばれていた。
明治中期、西洋にかぶれた大阪市がグローバル化を目論み、番号札くじの英語表記「Numbers」をそのまま日本語にあて、強制的に町名を変更。
今日では「ニセコ」「ハウステンボス」「さいたま」など、他言語名をそのまま地域名にするのはさほど珍しくはない。だが当時はまだ例がなく、市民にはおおむね不評だったという。

なお定番大阪弁「なんぼ?」を地名の由来とする俗説は、大阪贔屓なおっさんの妄想。


【大国町】 料亭や飲食店が多かったこの界隈の中でも、とりわけ名人と慕われその名を馳せた赤壁周庵由来と言われる。
「大料理長」「大コック長」「大国町」…ばんざーい!ばんざーい!ばんざーい!


大阪のすべて01【動物園前】 いわくあり気なさまざまな貧乏人を見られる様より「さながら人間動物園のよう」との地域愛称から。
その後本当に天王寺動物園を作ってしまい、ルナパークを作ってしまい、フェスティバルゲートを作ってしまい売ってしまい、土地の綽名が現実となってしまった稀有な地だ。


【天王寺】 明治後半から昭和10年代に渡り人気のあった精神病患者「阿倍野天皇」が入院していた癲狂院から。
東京への敵愾心から、葦原将軍の対抗馬としてむりやり流行させたもの。
奇矯で過激な言動は格好のゴシップネタとなり、新聞記者の間では「記事のネタに困ったときは阿倍野天皇へ話を聞きに行け」と言われた。

なお近在には「阿倍野」の地名も残存し、当時の人気ぶりが偲ばれる。
近所にある古刹は無関係。


【昭和町】 「M78星雲より舞い降りたる銀と朱を身にまといし天人」が飛び立つ、有名な伝説が地名の由来。
飛び立つときの大きな掛け声が、そのまま地名の所縁になった。
後世、元号にあやかり当て字をされた。


【西田辺】 一代で巨額の富を築いた西田屋源兵衛商店の大当たりした商品「西田鍋」に由来。
現在も早川電機工業と社名と業態を変え、当地で営業が続けられている。


【長居】 由来不詳。
たぶん短くはなかったんだろう-----------断じてネタを考えるのがだんだん面倒臭くなったからではない。


【我孫子】 チャム語のアビ(火)クク(神)やヘブライ語のAbik(我らの先祖たち)、アイヌ語のap-Kotan(釣針-村)やapkot-ni(釣-竿)など諸説起源があるが、いずれも嘘臭い。
それだったら「アビーロードが起源だ」とかも、言うたもん勝ちな気がする。


【北花田】 昔強かった堺出身の関取だか阪神タイガースの選手の名前。たぶん。
とりあえず付近のおばちゃんは、豹柄やショッキングピンクのいでたち。
そうしないと東京からいらっしゃったTVクルーが不満を口にしはるので。


【新金岡】 昔強かった堺出身の関取だか阪神タイガースの選手の名前。おそらく。
とりあえず付近の若者は、金髪ヤンキーとアゲハなキャバ嬢。
そうしないと東京からいらっしゃったTVクルーが不満を口にしはるので。


【中百舌鳥】 昔強かった堺出身の関取だか阪神タイガースの選手の名前。きっと。
とりあえずローカル芸人がなんぞ欲しがったらくれてやる。
そうせんと在阪TVクルーが庶民の町らしくないとか、ボヤかはりますねん。


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思っていたよりも、地名の由来をあれこれ調べるのは楽しかったです。
あなたもお住まいの地名を調べてみては、いかがですか?

ドナルド・バーセルミって お笑い物書きだよね

どういうワケだかわがニッポンにおいては「気鋭の芸術家・文学者」として輸入・定着したドナルド・バーセルミ(Donald Barthelme)ですが、なんでそうなっちゃったんだろ。
これって『名探偵コナン』を、成人社会を子供の目線で風刺した作品、て輸出紹介するぐらい誤認度があるんでないかい?


ドナルド・バーセルミはユーモリストだと、ワタクシは思うのです。
ドナルドの得意分野が現代美術なため文中テクニカル・タームに美術芸術用語が多く、それでなんだかクソ真面目なカッチリした翻訳文で入国審査を通過し、これまた生真面目だけが取り柄の芸術学部のセンセなんかが読んじゃって、これまた感性だセンスだ表現力だと熱く語る割にはてんで実力ともなわない自称アーティスト連中が感化されちまったために、芸術家呼ばわりされるハメになったのではないかと想像します。
よりによってニッポン内でも最もシャレっ気のない連中の中に放り込まれちまった。
これじゃ、ウケる噺がウケなくても仕方ない。


たとえば『野球芸術』にはこんな文章が並びます。



芸術とは、ホイジンガからロジェ・カイヨワに至る理論家たちが重要なレベルで指摘したように、遊びである。
芸術とは勝つこともあれば負けることもある、あるいは凄絶な死闘の末むなしく引き分けに終わることもある、ある種のゲームだ。
とすれば、今世紀の著名な芸術家の幾人かが、生涯の折々に野球選手でもあったという事実も、なんら驚くにはあたるまい。
アトリエや書斎での仕事に対する解毒剤のひとつとして、芸術の巨匠たちはだいたい1シーズンか2シーズンの間プレイしたのち、気分も新たにふたたび芸術家としての探求へ戻る。
不思議なことだが、彼らの実績は公式野球史にほとんどその痕跡をとどめていない。球史編纂者は、まるで別世界からやって来た幽霊たちにおびえるかのようだ。すなわち野球というスポーツに対する彼ら芸術家たちの貢献は、心理学になじむ者にはおなじみの「否認の心的メカニズム」を誘発する類いのものだったのだろう。

近年の研究によって、芸術と野球の魔術的合体を立証するめざましい事例が相当数明らかになってきた。ここにその実例をいくつか紹介しよう。

ショート T・S・エリオット
T・S・エリオットの『荒地』といえば、疑いなく、英語で書かれた詩のなかで、もっとも詳細に研究され、もっとも綿密に注釈され、重箱の隅をつつくようにもっとも数多く論評されてきた作品だ。だが、これまで見逃されてきたのは――ここまですさまじい誤読の連続は、わが国の文学研究でも他例を見ない――この作品が何よりもまず、1922年のセントルイス・ブラウンズをめぐって書かれた詩だという事実である。
この年、イギリスから帰国していたエリオットは、ブラウンズの遊撃手として、束の間スターの座にあったのだ。
周知のように、エリオットは1914年以来イギリスに住んでいた(市民権を得たのは1927年)。1920年の『詩集』刊行以後、何か創造的な勢い、何らかの生命力が自分の詩作から失せてしまったことを彼は感じていた。その解決策が、若き日々を過ごしたセントルイスに戻り、ブラウンズへ入団志願するというものであった。これから述べるように、この選択こそが現代詩の運命を左右したのである。

ブラウンズに遊撃手として起用された彼は、セントルイスのユニフォームのみならず、黒い山高帽をかぶり英国紳士の伝統に則り帽子と同じ色の傘を手にグラウンドに現われ、ファンとチームメイトを唖然とさせた。こうした奇行が許されるのも、若きトムが、つねに機敏なプレイで本分を果たしたからこそ。彼がショートを守っていた期間、その守備範囲はチームにとりマイホームのように安全な空間だった。
だがこの詩人が一流プレイヤーではあっても、チームは一流とは言いがたかった。この事実こそが、エリオット不朽の名作誕生の決定的な要因となる。作品自体が動かぬ証拠に満ち満ちているのは、以下の事例を曇りなき目で見る者には、まさしく自明の理だろう。

その1。
『荒地』の第1行
   四月はいちばん無情な月
は、元来
   八月はいちばん無情な月
であった。これは1931年8月、ブラウンズがセントルイスにおいてヤンキースに喫した連敗に一言及したものである。この致命的な連敗によって、ブラウンズはペナントレースから事実上脱落した。
エリオットの師として『荒地』に加筆訂正を施し、この詩を現在残る偉大な文化遺産に仕立て上げたのはいうまでもなくエズラ・パウンドであるが、パウンドはこの一行に関し、八月がひどい月であることはセントルイスの人間のみならず世界中の人間が知っていることで、これではあまりにわかり易すぎると主張し、エリオットも同意した。

その2。
IIの
   これが三叉の矛もつ男
という句は、疑念の余地なく、かの名選手ベーブ・ルースがバッターボックスヘ向かう姿を予示する表現にほかならない。バンビーノと渾名されたあの童顔ブレイヤーが3本のバットを振りまわしながら、のうのうと打席に向かう姿を彷佛させる一節だ。
ルースはこのシーズン最初の1ヶ月間規則違反の地方巡業に加わったため出場停止処分を受けていたのだが(処分を下したのは初代コミッショナー、ケネソー・マウンテン・ランディス)、セントルイスとの対戦には参加することができた。
『荒地』には、ルースの登場で引き起こされる不安がいたるところにみなぎった作品だ。

その3。
IIIの
   このわたしティレシアス、めくらながら‥‥見えるのです
は、明らかに審判への言及である。

その4。
同じくIIIの
   とある冬の日の夕方
   ガス工場の裏手へ廻り
   泥くさい運河で釣りをしていた
という筒所は30年代なかば、よく走りよく滑り込むためユニフォームは真っ黒、さながらガス工場の労働者のように見えたカーディナルスの面々が「ガスハウス・ギャング」と呼ばれるに至る未来を予言している。
それとともに、ここで釣りをしていス“フィッシャー・キング”とは、ブラウンズの強打者で23年には4割を越える打率を残したジョージ・シスラーなことは明らかだ。自分の活躍も無力なチームメイトたちのせいで足を引っぱられているというシスラーの思いは、切実な響きのこもる
   魚を釣る
   乾からびた平野に背をむけて
にあまりにも明白だ。

その5。
Vの
  赤んぼ面のバットは
  紫蘭の光のなかで
は、延長戦に突入し、危うさみなぎる幻めいた黄昏の下で行なわれた試合に触発された一行である。
時遠144キロのボールを、赤子の顔をしたバットめがけ投げる気に普通なれるだろうか?いや必ずやためらうにちがいない。そして、ためらいこそが、この一節だけでなく、エリオットの作品群全体における鍵にほかならない。
証拠はまだまだ挙げられよう。
だがその必要もあるまい。
もはや事実は証明されたといってよいだろう。
(Donald Barthelme "The Art Of Baseball" , 60 Stories; EP Dutton,1995より私訳。適宜改行。)



なにが「もはや事実は証明されたといってよいだろう」なんだか。
こんな調子でジャンゴ・ラインハルトはピッチャーに、スーザン・ソンダクは強打者で一塁手、モンドリアンは名投手、デ・クーニングは強打者、シュヴィッタース、ビリー・マーチンなどもむりやり野球史とつなげては楽しませてくれます。
これをユーモアと誉めずして、何と言うのでしょう?
2005.10.22初出

ビリー・ワイルダーは京都・丸善に爆弾を仕掛けるか

トッツィー』を観たあとに、こう思った。
「あ。ダスティン・ホフマン(あるいはシドニー・ポラック監督)は、『お熱いのがお好き』を観てるな。」
ミセス・ダウト』を観たあとに、こう思った。
「ああ‥‥。ロビン・ウイリアムス(あるいはクリス・コロンバス監督)は、『トッツィー』は観ているが、『お熱いのがお好き』は観ていないな‥‥」
歳をとるにつけ困るのは、昔の映画の似たようなシット・コムをすぐ思い出し、比べてしまうことです。渋々女装を余儀無くされるシット・コムを見る度に、どうしてもビリー・ワイルダー、マリリン・モンローそしてジャック・レモンのスクリューボール・コメディ『お熱いのがお好き』と比べてしまいます。
『お熱いのがお好き』はさほどゲラゲラ笑えるとは言い難いコメディ映画です。
だが興行的には当時記録的な大ヒットを飛ばし、前作『七年目の浮気』――おなじみの地下鉄通風口で白スカートのめくりあがる例のあれです――とのペアで「セクシー・シンボル」マリリン・モンローを完全に定着させた映画。ビリー・ワイルダー監督の「ショー・ビズとしての映画づくりの巧さ」を最もコンパクトに知ることができます。『お熱いのがお好き』は“お笑いカタログ”としてご紹介するにはややお笑い度は低くなってしまいますが、ビリー・ワイルダーという映画監督の仕事の巧さを知るには適材でしょう。
このあとマリリン・モンローは激務に耐えかねたか、変死してしまいます。このあたりはほうぼうあまたある映画通のかたのサイトや和田誠にお任せすることにいたしまして。


さて。
マリリン・モンローばかりがクローズアップされがちな『お熱いのがお好き』ではありますが、実はコメディ好きの向きには、ジャック・レモンの名脇役演技ぶりに、注目していただきたいところ。実際ストーリー上では彼が主役なのですが、マリリン・モンローのインパクトに喰われてしまった、という言い方のほうが正しい。

ビリー・ワイルダーは'50からの約15年間に、本当に良い仕事をたくさん残してくれました。
 1950 サンセット大通り(Sunset Boulvard)
 1954 サブリナ(Sabrina)
 1955 七年目の浮気(The Seventh Year Itch)
 1957 昼下がりの情事(Love in the Afternoon)
 1959 お熱いのがお好き(Some Like it Hot)
 1960 アパートの鍵貸します(The Apartment)
 1961 ワン・ツー・スリー(One, Two, Three)
これ以外にもいろいろな脚本やセカンド撮影ユニット監督として参加していますが、まずは上の7作品は群を抜き良い作品だと思います――必ずしも「コメディの範疇」に入らないものもありますが。ビリー・ワイルダーに触れてみたいかたは、まずは上記の7作品をご覧ください。いずれ劣らずビリー・ワイルダーの「映画づくりの巧さ」を堪能いただけます。

ここでは「お笑いカタログ」の主旨に添い、殊にジャック・レモンを起用した際のビリー・ワイルダーの面白さをおすすめしたい。上記の7作品内でジャック・レモンが活躍してくれるのは『お熱いのがお好き』『アパートの鍵貸します』の2本。
その後もたくさんのビリー・ワイルダー映画にジャック・レモンは登場し、ビリー映画の常連キャストとなるのはご承知のとおり。
永年の相棒として、ジャック・レモンが1986年に10回目(!)のオスカー賞授賞式で、「ワイルダーズ・ラック」と陰口をたたかれていたエピソードについてスピーチしています。ワイルダーとレモンの深い信頼感がよく表れた面白いエピソードかと思います。
レモンは、“自分は28年間にわたりワイルダーの映画に出演してきたが、勝手気ままに無理な注文をつけられることが多々あった”と前フリし
「1960年に『アパートの鍵貸します』の撮影が始まる前、私の上司を演じるはずだった俳優が心臓発作で倒れ、そのまま亡くなりました。あとを引き継いだフレッド・マクマレーは映画のあとまで生き延びました」
横で紹介を受けるワイルダーは「心臓を悪くして死んだのはポール・ダグラスだったな」と付け加える。

「1961年に『ワン、ツー、スリー』を撮ったあと、主演俳優が“もう二度と映画なんて出ないぞ!”と啖呵を切り、そのまま引退してしまいました」
ワイルダーはいう。「ジミー・キャグニーだな」

レモンのスピーチは続く。「同じくやはり『ワン、ツー、スリー』の時、ホルスト・ブーフホルツは撮影終了の直前に交通事故を起こしてしまいました。彼の出番が終わってからのことです。ブーフホルツはポルシェを運転していて木に衝突し、危うく命を落とすところでした」
ワイルダーは一部を訂正する。「ポルシェじゃなくてキャディラックだよ。それに酔っ払い運転だ」

レモンはゲストを前にしさらにいけしゃあしゃあと語る。「1964年には、ピーター・セラーズが撮影開始から6週間目の日曜日に重度の心臓発作を起こしまして、製作は中断せざるをえませんでした。結局、レイ・ウォルストンが交替することになり、彼は生き延びました」
ワイルダーはいう。「あのときは4週間も中断があったっけな」

「ワイルダーは1966年には『恋人よ帰れ!わが胸に』を撮りました」レモンは栄えあるこの日のスピーチにまだまだ不幸のリストアップを続ける。「8週間、撮影が進んだときのことです。またしても主演俳優が心臓発作を起こしました。またも日曜日でした。彼が回復するまで、撮影は5ヶ月間中断を余儀なくされました」このとき以来ワイルダーは、1週間の7番目の日のことを“ブラディ・サンデー”と呼ぶようになったという。
彼はここでも主演俳優の名前を補足した。「そうだ。ウォルター・マッソーだ」

1981年に『バディ・バディ』が撮られた際には、トレーニングを積んだ届強な俳優、ウォルター・マッソ-が洗濯物用のシュートを下まで落ちる場面を演じることになった。彼は挑戦したものの、足場を踏みはずしてまっさかさまに14フィートも下の舞台に転落してしまった。「マッソーは頭蓋骨を骨析し、脊椎を損傷し、肩を脱臼していました」
すかさずワィルダーは注を加える。「12週間も撮影を中断しなくちゃいけなかったんだ、あの時。」

このあともジャック・レモンは、ワイルダー映画に関わっては、心臓発作を起こしあるいは骨折をしたすべての俳優の名前を延々列挙し、すっかり会場の雰囲気を忌々しくし、こう締めくくった。
「今宵、この場に自分がこうして立っていられるのが、どれほど喜ばしいことか!申し上げようもありません!」

それまでも喜劇役者としてすでに業界内では実力を認められていたジャック・レモンでしたが、はじめてビリー・ワイルダーに声をかけられたときのことを、こう残してます。
レストラン『ドミニクス』でディナーを楽しんでいると、“悪名高い”監督ワイルダーが通りかかり「ちょっだけ私たちのテーブルに来ないか」と誘う。
「いいストーリーがあるんだ。」ワイルダーは続ける。「主人公はふたりの若い男で、彼らはヴァレンタイン・デーの虐殺を目撃するんだ。ふたりは失職中のミュージシャンなんだが、殺人者に顔を見られてしまったせいで、変装して姿を隠さなければならなくなる。お金もない彼らは、女装して女性ばかりのバンドに入れてもらう。映画の3/4は、かつらをかぶっていることになるな。
 君、その役をやらないか?」
レモンはイエスと答えた。
ワイルダーはオーケー、といって立ち上がった。「じゃあこっちから連絡するから‥‥」
「ところで、なんてタイトルの映画なんですか?」レモンはワイルダーの背後から叫んだ。
彼は振り向いて答えた。
「『お熱いのがお好き』、さ。」

こうして演技派喜劇俳優と名うての監督の名コンビが誕生します。他のキャストの心臓を壊しまくりながら。
お読みいただくとおわかりのように、ビリーが言うほど脚本素材そのものはさほど“面白そうなハナシ”ではありません。だがそれをキチンと洒落たスクリューボール・コメディとしてつくりあげ、興行的にも大ヒットさせてしまう。ここにビリー・ワイルダーの敏腕ぶりが察せられましょう。

ビリー・ワイルダー自身も脚本を書くほど普段からジョークが好きだったようで、ほうぼうのインタビューでもなかなか気の利いた答えを返しています。
ここでは撮影エピソードのひとつとして、名コンビの傑作『アパートの鍵貸します』でのインタビューをば。

『アパートの鍵貸します』で、自分の部屋を上司が秘書との浮気に使っているために帰宅できない、という場面がある。外はひどく寒い。クリスマス直前の話なのだ。
レモンは上着の衿を立て、がたがたと震えながらセントラル・パークをぶらつき、ベンチに腰をおろす。そのままではきっと風邪をひいてしまうだろう。さらなる拷問を私たちは考えていた。私たちはレモンをセントラル・パークに行かせ、さらによけいなことには雨まで降らせようと考えたのだ。
“たいへん残念なことに”その日雨は一摘も降らなかったので、ホースでレモンをずぶ濡れにすることにした。もちろん、路上にも水をまかなければならない。作業を開始するやいなやニューヨーク警察のパトカーがブレーキの鋭い音を響かせてやってきた。
「なにをなさってるんですか?」
「映画を撮ってるんです。ここに許可証がありますよ」
「じゃ、どうして水をまいてるんですか?」
「雨の場面を撮っているからじゃありませんか」
「それはまずいですよ。
 こんな寒さのなかで水まきなんかされちゃ困ります。こんなに気温が低いんですから!
 その水が凍って、アイスバーンができてしまう。そうしたら車も人もスリップしてしまう」
私は答えた。「オーケー。わかりましたよ。危険であることは納得いたしました。水をまけば凍ってしまう。
 だったら、水のかわりにアルコールをまくことにしましょう。それだったら凍らないわけだから」
「アルコールぅ?」警官が尋ねた。「アルコールをまく?そんなことを許可してもいいのかな?」隊長らしき人物は困ったような顔をし首を振った。
私は彼にいった。「たとえば、交通事故の遺族に対して5000ドルほど寄付するとしたら、アルコールに対する許可をもらえませんか?」
警官は答えた。「いいでしょう。ただしアルコールなら凍らないということを保証してくださるならですが」彼は5000ドルを受け取ると、パトカーに乗って去って行った。

私たちは撮影を続けた。まもなく2台目のパトカーが現われた。続いて3台目、4台目も‥‥。
ハリウッドから来た馬鹿どもが映画を撮っていて、いくらか金を巻き上げられるらしいという話がどんどん広まっていったからだ。
さらにそのまま撮影を続行したところ、2、3日後にはブルックリンやクイーンズからやってきたパトカーがずらりと並び、あれこれと言いがかりをつける順番を待っていた。

とはいえ、これはひと昔前の話だ。
その後、ニューヨーク警察には、こんな金銭強要が起こらぬよう監視するコミッショナーのポストが設けられた。いまやすべては完璧な監視のもとにおかれ、ことは順調に運ばれるようになった。
ただ思うに、そのコミッショナー代のほうがかえって高くつくようになった。

(引用はHellmuth Karasek(瀬川裕司・訳)『ビリーワイルダー自作自伝』文藝春秋刊 1996.4より。一部抜粋改稿・適宜改行。)

この古き良き時代の後、ハリウッドのコメディは次第に失速します。不毛の60年代を経、やがてテレビでウケたコメディアン頼みになるのは、ご案内のとおり。
いよいよわれらSNL時代が、近づいてまいります。
初出:2004.08

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このサイトは、かつて「Lankin' A Go! Go!」というサイト名で別URLにて公開していたネタや記事を多く改稿・転載しています。


記事末に初出年月日を記載しています。初出の場合には無記載です。
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