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文芸評論パスティーシュの見本帳(4)

(前話はこちら)
さんざクサしましたが、パロディやパスティーシュを作ったことのあるかたならば、ネタ本の1冊としてあなたの薬籠へこの本を入れておき、損はありません。「~風評論文」のツボは、およそ網羅しています。「こういう評論家の名前を使い」「だいたいこのあたりを突ついて語れば」それらしく「~風」になる、と、具体的文例をともない把握できます。

つまりわずか800円弱のこれ1冊あれば「所ジョージの世田谷ベース 文体論評論」でも「人生がときめく片づけの魔法 リアリズム解釈」「コンパクトデジタルカメラ OLYMPUS ToughTG-820 付属マニュアルに関するフェミニズム批評」だろうと、パスティーシュネタは、そりゃもう書き飛ばし放題!
さながらデザイナーが配色見本帳を参照しながら意匠制作をするように、文芸評論テキストなぞりの見本帳として参照する価値ある1冊と言えましょう。
しかも本書自ら「ネタの換骨奪胎なんか、外国モノを抜書き翻訳し、ためらわずどんどんやっちゃっていいのよ」と示していただけています。

それでは最後にもうひとつ。
さらに旧世代ご用達・マルクス主義風批評を。これも割によく特長をとらえて書けています。いまだにこんな感じの論旨を垂れ流し続ける初老のおじさまは存外多く、苦笑できますよ。
Photo by Redrave

怪物とは何か
 清教徒革命とフランス革命の共通点は、それらが啓蒙思想を基盤とし、絶対君主制を打ち倒して正義や理性に基づく社会秩序を作り出そうとする試みであり、近代社会の成熟の成果であると言えること、にもかかわらず、結局はさらなる暴虐と無秩序に帰してしまったことである。この現象には、どのようなメカニズムが働いているのだろうか。革命の先導者たちは、旧政体を打倒するために大衆を結集する。しかし、ひとたび決起した群衆は、非理性的な行動に走り出し、その要求は際限なく膨れあがり、すさまじい破壊力と化して新しい秩序を作り出すことを阻む。市民革命が呼び起こした「群集の力」とは、いったん束縛を解くと制御できなくなる「怪物」にほかならなかった。

 フランス革命終結後も続いた混乱状態は、イギリス社会にも深く浸透した。しかもイギリスでは、同時期に産業革命が重なった。新しい技術や幾械が突然現われるとともに、失業者が増大し物価が上昇し、人々の生活ががらりと変わり始めたのである。蒸気機関とか自動紡績機といったものは、人間が作ったものではあっても、多くの人々にとっては、どこから出てきたのか素性の不明な、理解を超えたものであり、これまでとは違う世界の到来の前触れのように思われた。産業革命とは、一般市民にとってまさに「怪物」だったのである。

 他方、産業革命は、産業労働者という新たな階級を形成した。それは、自らの利害が雇用主階級の利害と対立すること意識する集合体であり、いったん結集して集団行動を起こすと、社会を脅かす破壊的な勢力と化す。1810年代には、労働者の集団が工場を襲撃し機械を打ち壊すラッダイト運動をはじめ、次々と暴動が起こり、国による鎮圧が繰り返された。労働者階級とは、支配者層の目には、自らが作りだした「怪物」のように映ったのである。

 『フランケンシュタイン』がこうした歴史のなかに織り込まれた作品であることは、疑問の余地がない。なぜならば、この小説は「怪物」の誕生を描いた物語であり、この恐怖と哀れみの対象である怪物は、新興労働者階級にぴったり符合するからだと、批評家モレッティ(Franco Moretti)は主張する。
たしかに両者は、多くの点で似ている。どちらも人工的に造られたものであること。ばらばらの人間の寄せ集めで、自然な有機体としての統一を欠くこと。フランケンシュタインは、科学と技術の進歩を目指して人造人間を造り、資本主義は、技術革新によって労働者階級を生み出すが、いずれも創造者にとっては破壊的な怪物と化すのである。

 したがって、メアリ・シェリーはフランス革命や資本主義が怪物を生んだということを、告発しようとしているのだというように読める。しかし彼女は、怪物をたんにおぞましい恐怖の対象として描いているだけではなく、怪物への哀れみを読者から引き出そうともしている。怪物とは、言葉を持たず一方的に見られ恐れられる存在であるという一般的概念を打ち破って、メアリ・シェリーは、自らの苦しみを雄弁に語る怪物を創造する。それによって彼女は、怪物に、自らのために語る言葉を持たない労働者たちの代弁をさせているのだと、モンターク(Warren Montag)は言う。作者はおそらく、労働者階級への同情と、ふたたびフランス革命の恐怖が繰り返されることへの不安との間で、揺れ動いていたのであろう。『フランケンシュタイン』は、このジレンマの誓え話として読むことができるのである。

 ちなみに、この作品には、暴力的な怒れる群衆が、怪物による誓え話としてではなく、直接描かれている箇所がある。それは、ジャスティーヌが法廷で「何千人もの傍聴人によって凝視され、ののしりの声を浴びせられる」(第8章)場面である。エリザベスが弁護に立ち被告人の潔白を主張すると、ジャスティーヌの極悪非道な忘恩に対して、「群衆の怒りが狂暴さを新たにして」向けられる。裁判の結果、ジャスティーヌは有罪判決を受け、断頭台で処刑される。この敵意を持った群衆の姿は、ジャコバン的な暴徒のイメージと重なり合う。また、1800年から1820年の時期に、イギリスでは年間700~800件に及ぶ死刑の執行があり、これはイギリス史上ではもっとも高い数値の記録だという。したがって、ジャスティーヌの処刑は、イギリスの動乱期のひとこまを示す場面であるとも言えよう。

闘争としての歴史
 モンタークは、この小説の矛盾点を二つ挙げる。
 第一は、フランケンシュタインの悲劇の中心を占めるはずの怪物創造のプロセスの直接的描写が、テクストから省かれていることである。フランケンシュタインの語りは、「不潔な創造の仕事場」についてのくだりに来ると、話が曖昧になったり脇道に逸れたりして、結局プロセスが描かれないまま、怪物が出来上がった場面へと飛び越える。彼が「解剖室」「屠畜場」と呼ぶ仕事場の具体的な描写はなく、「思い出しただけも、めまいがする」というように、それが再生不可能であることが強調される。
 第二の矛盾点は、作品の背景として近代の産業社会がまったく描かれていないことである。描写されているのは、崇高なアルプスの山々、神秘的な湖、豊かに実った畑といった四季折々の自然ばかりである。フランケンシュタインとクラヴァルが、ロンドンをはじめイギリスの都市を転々と族したときでさえ、工場や産業労働者はまったく描かれていない。つまり、この作品の核心を占める「科学技術」そのものが、テクストから決定的に欠落しているのである。

 これらの矛盾点から浮かび上がってくる歴史性とは、科学技術の進歩が、人間の自由を達成することにはつながらず、それ自体の論理によって動き始め、社会に分裂をもたらし、人間を新たな隷属状態に至らしめたという現象である。フランケンシュタインの人生とは、科学の征服者たろうとして、結局、科学の道具として奴隷と化した人間の経歴にすぎない。現代的なものがいっさい排除された世界を背景として、怪物は、都会・産業・労働者といったものを一身に負って体現しているゆえに、真の怪物性を帯びることになるのである。

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こう眺めてゆくと、文芸批評というのはつくづくマイノリティ視点を要求され続けているのですね。
役立たずな学問と言われ続ける文学研究なんかやっている劣等感からでしょうか?あるいは「自分こそは人と違う」な自尊心を論理武装した結果の、妙にねじれた自己表現でしょうか?
文学研究者の奥底にねっとりと淀み続ける欲求は、少し香ばしい。
面倒くさい人たちですね。
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