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文芸評論パスティーシュの見本帳(2)

(前話はこちら)
クイアはこんな感じです。我田引水なあの感じをよくつかまえていると思います。
レズビアンを語りたいがために、作者のおかあちゃんまでレズ呼ばわりかよ。
クイアのみならず、「カル・スタ」「ポス・コロ」「フェミ」「新歴史」など、90年~00年代頃、精一杯文学的に背伸びしたみなさまが喜びそうなお品書きは、ひとしきり揃えてあります。この文芸イケアな品揃えぶり!
パクリ元である原書『Frankenstein--Case Studies in Contemporary Criticism』においてカルチュアル・スタディは本家本元イギリス仕込み。例のあの調子で、あちこちつまみ食いでぐだぐだダラダラ、お読みいただく配慮皆無の長文。
ここではカルスタだの読者視点だののうだうだ分はうっちゃり、ポストコロニアル風をご紹介し、最近「風」の文芸批評サンプルとしておきます。
orientalism02.jpg
Photo by ANJOU
『フランケンシュタイン』 におけるオリエンタリズム
『フランケンシュタイン』は、植民地を支配する側の西洋生まれの作家によって書かれた作品である。この作品の大半の登場人物ほヨーロッパ人であるが、怪物がフランケンシュタインに語る話のなかに、トルコ人父娘が登場する。

 怪物の隣に住むド・ラセ一家は、もとはフランスの良家の出で裕福だったが、いまはすっかり財産を失って没落し、ドイツで亡命生活を送っている。その原因は、ひとりのトルコの商人のせいであったとされる。このトルコ人は、なんらかの不当な理由によりパリで囚われの身となり、死刑を宣告される。これに憤りを覚えたフェリックス・ド・ラセーは、囚人の逃亡計画に加担する。トルコ人にはサフィーという美しい娘がいて、フェリックスは監獄を出入りするうち彼女に出会い恋に陥った。トルコ人はこれを利用し、安全な場所に逃れたら娘と結婚させると約束して、フェリックスに助力を請う。ところが、彼らが逃亡に成功したあと、陰謀が発覚してフェリックスの父と妹が捕らえられると、トルコ人はフェリックスを裏切って、故国へ引き揚げてゆく。かたやド・ラセ一家は、父娘が釈放されたあと財産を没収され、一家ともどもフランスから追放されたのだった。
ここから浮かび上がってくるトルコ人のイメージは、民族的偏見のゆえに無実の罪を着せられた犠牲者としての側面と、狡猾な忘恩者としての側面という両面性を持つ。

 では、娘サフィーはどのように描かれているか。彼女は、あとからトルコへ向かうようにという父の指図には従わず、密かに恋人を追ってドイツへ旅立ち、ド・ラセー家に身を寄せる。彼女の亡き母親は、キリスト教徒のアラビア人で、トルコ人の奴隷になったが、美貌によってトルコ商人の目に止まり、結婚したのだった。
つまり、サフィーには半分母親の血が流れていて、母の教化の影響で、その心は完全にキリスト教徒のものだったのである。それゆえサフィーは、「またアジアに帰って、ハーレムの壁の内に閉じこめられ、することといえば幼稚な遊びしか許されないような暮らしに戻るかと思うと、うんざりして」(第14章)、キリスト教徒と結婚し女性の社会的地位が認められる国で生きることに憧れていたのだった。サフィーは東洋人でありながら肯定的に描かれているが、そこにはキリスト教徒であるという西洋的価値が付与されている。彼女はハーレムの壁の内に女性を閉じこめる劣った故国から脱出しようとする女性として位置づけられているのである。ここにも、帝国主義による東洋世界の定型化が、明らかに見て取れる。

 フェリックスが、サフィーにフランス語を教えるために使った教材は、ヴォルネーの『諸帝国の没落』だった。怪物は壁の隙間からこの授業をうかがいながら、自分もいっしょに勉強する。怪物はヴォルネーの著書をとおして、語学だけではなく、人間の歴史や風習、政治、宗教などのあらましについても学ぶ。怪物は授業で聞いた具体的な内容について、次のように列挙する。
 アジア人の怠惰さ、ギリシア人の並はずれた才能と精神の活発さ、初期ローマ人の戦争とすばらしい美徳----そのあとの堕落----かの大帝国の衰退、騎士道やキリスト教や王たちのことを、おれは聞いて知った。アメリカ側の半球が発見された話を聞いたときには、その先住民たちの不運な運命に思いを馳せて、おれはサフィーとともに涙を流した。  (第13章)

 ここでも、アジア人の劣性とヨーロッパ人の先天的・文化的優性とが対比されている。西洋人の侵略によって迫害されたアメリカ先住民の話を聞いたとき、サフィーと怪物はなぜ涙を流すのだろうか。それはたんなる同情の涙ではなく、彼らの境遇とアメリカ先住民の運命に重なり合う点があることを暗示している。自ら第三世界の出身者であるサフィーが、植民地化される側に立脚した見方をするのは、自然であろう。怪物もまた、「黄色」の皮膚に「黒光りした髪の毛」(第5章)という黄色人種のような風貌を持ち、あらゆるヨーロッパ人から排斥される。したがってその涙にも、ポストコロニアル的な含みが読み取れるかもしれない。

帝国主義的侵犯
 フランケンシュタインの友人クラヴァルは、ジュネーヴの商人の息子で、少年のころから「冒険的偉業への情熱」(第2章)に駆られている。クラヴァルもフランケンシュタインと同様、偉業によって名を残したいという野心を抱くが、彼が関心を向ける方面は科学ではなく、人文系の学問である。子供時代のクラヴァルは文学的才能豊かな少年として描かれていて、青年となって大学に進学するさいには、その目的が次のように具体的に述べられている。
彼が大学に来たのは、東洋の言語を完全に習得し、それによって自分で決めた人生計画の領域を切り開こうという企てのためだった。無名の生涯は送るまいとした彼は、冒険心を発揮する場として東方に目を向けたのだ。ペルシア語、アラビア語、サンスクリットに、彼は注意を引かれていた。  (第6章)

クラヴァルの学んだ学問領域が、東洋の語学・文学であったことはわかるが、彼の「冒険的偉業」が具体的にどのような形で達成されようとしているのかは、曖昧である。スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak)は、ここで用いられている表現は、「伝道的なものというよりも、むしろ企業家的」であると指摘する。

 クラヴァルが大学で勉強を始めてから約2年後、彼とともにイギリスを旅行したフランケンシュタインは、友について次のように語っている。
私はクラヴァルのなかに、かつての自分自身の姿を見る思いだった。彼は好奇心に溢れ、経験や知識から学ぶことに熱中していた……彼はかねてよりあたためてきた企ても進めていた。彼の計画とは、インドに行くことだった。インドの諸言語やその社会についての知識があるので、自分は実際にヨーロッパの植民地建設と貿易の発展に貢献できると信じていたのだ。イギリスでしか計画を推し進めることができなかったので、彼はずっと忙しかった。 (第19章)

ここでは、クラヴァルの企てのなかに、インドでの植民地建設が含まれていることが明かされ、帝国主義的色彩が加わってくる。「イギリスでしか計画を推し進めることができなかった」のは、その計画が東インド会社と関連があったからで、彼の「冒険的偉業」が純然たる文学的なものではなかったことを示していると言えるだろう。そして彼は、インドへの出発を目前に控えて、怪物に殺されてしまうのである。

 クラヴァルのインド行きをはじめ、フランケンシュタインの人造人間製作やウォルトンの北極探検もまた、ヨーロッパ人による侵犯行為として位置づけるならば、この作品における帝国主義的侵犯はすべて挫折に終わるのである。(つづく)
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