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都会モンぶりたい田舎モン市場での成功者 ラッセルじいさん

ラッセル・ベイカーすっかり訓示垂れジジイと化したラッセル・ベイカー(Russell Baker)ですが、NY Timesに書いていたころのものは楽しい文章が多かったように記憶しています。今も不定期で署名記事が掲載されているそうですが、目にとまることが少なくなりました――あ!そっか、私がそういうカタい記事ページを読まないからじゃん!

面白い文章ではあるけれど、地口や揶揄、風刺ネタが多いし、きっと翻訳モノは出ていないだろうなあ、と思ったら、ありました!新庄哲夫さんとおっしゃる翻訳家の労作『怒る楽しみ(河出文庫)』。1988年発刊だそうです。早速取り寄せ拝読。

ラッセルじじいの“都会のくたびれた年寄り風情の雰囲気”を殺さないよう配慮された労作です。わたしのショボい意訳よりもよく練られた翻訳文でいらっしゃいます。さすが商業ベース。ここに、そのまま転載し一部をご紹介します。無断転載につき、関係者のかたのご指摘あらば即陳謝し撤去いたします。

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ここはニューヨークだ。
車は道端に停める。街角を曲がったところに停める場合もあれば、通りの向こう側に停めることもあり、窓の真下に停める者もいる。
ドアをすべてロックする。ガソリンの注入口もロックする。そして立ち去る。行先はわからない。マンハッタンでは駐車場所を見つけるのがひと苦労なので、おそらく1キロか2キロもしくは5キロも離れたところまで歩いて行くのだろう。

車の持ち主は、あくる朝の4時まで戻ってこない可能性もある。ことによると、夜通し姿を現さないかもしれない。たとえ、ニュージャージ州のナンバープレートを付けているから日の出前にはハドソン河を渡って帰らなければならないはずだと思われたとしても。
いずれにせよ、ニュージャージ・ナンバーの車だからといって楽観はできない。
ニューヨークでは、車を所有する人の半数が、ニュージャージのナンバープレートをこれ見よがしに付けている。それはニューヨークの過酷な税制を出し抜くひとつの手なのだ。だから、ニュージャージ・ナンバーの車が停まっていても、持ち主は街の反対側にある自分のアパートへ寝に帰る途中かもしれない。

よそ者なら、こう考えるだろう。「まぬけなやつだ。ニューヨークであんなふうに路上駐車しておくとはな――もどってきたら、煙のように車は消えてるぞ」
よそ者がこう考えるのも、ニューヨークという街は犯罪の巣だといった話を、耳にたこができるほど吹き込まれてきたからである。誤解だ。
ニュージャージ・ナンバーを付けたニューヨークの税金逃れどもは、犯罪者に車を盗まれるのではないかという不安は抱いていない。心配ご無用。車には盗難防止警報器が取り付けてある。

誰かが車に触れようものなら、警報器は耳をつんざかんばかりのけたたましい音を立て、六重のレンガ壁を貫き3ブロック向こうまで届くことになる。その界隈の住民はたちどころに、車に触った者がいるなとわかる。泥棒は一目散に逃げて行く。

名案だって?ニューヨークっ子ならそうは思わないだろう。ニューヨークっ子なら、これが名案などといえる代物ではないのを分かっている。悪魔的な手なのである。
なぜなら、なにが起こるかというといったん警報器がわめきはじめたが最後、泥棒がその界隈から逃げ去ったあともひたすらわめきつづけるのである。その音は一本調子の延々とつづく甲高い響きで、レンガ壁を突き抜けるばかりでなく、周囲の住民すべての神経と骨の随にまでキリキリと突き刺さる。
普通、この地獄の試練は20分から30分で終わるのだが、私は4時間もつづいた例を体験している。1時間も我慢したのち、家から逃げ出して映画を見に行ったが、もどってみるとまだけたたましい音が鳴りつづけていた。

時には警官がやってくる。警報器が15分鳴りつづけば、法律上は警官がドアをこじ開けて警報器の電源を切ることが許されているそうだけれど、ニューヨークのオマワリにはもっと差し迫った任務があり、15分も車の悲鳴を聞いている暇はない。とにかく一度なんとかしてもらおうと電話したが、姿を見せたオマワリは、車がロックされているのを知るなり、手の打ちようがありませんな、と言って謝り、無線命令に従ってもっと重要な事件を処理しようとあたふたと立ち去った。

ほかの町では――おそらくほとんどの町でそうだろうが――窓の下に駐車され、何時間も工場のサイレンのように鳴りつづける車にどう対処すべきか心得ているはずだ。
たぶん騒音に苦しんでいる隣人たちが臨時会合を開き、警察の取り調べには黙秘しようと誓い合ったのち、誰かに全権限を委任し、鉄棒で車の窓をたたき割り、ドアを開けて電線を引きちぎってもらうことになるだろう。
ことによると、町をあげて、車なら社会全体にのさばっても許されるといった態度に業を煮やし、車に殺到してホウキの柄や鉄棒でたたきのめし、絶叫がしわがれたすすり泣きになるまでやっつけるかもしれない。

そう。いうまでもなく不公平なのは、2000人の罪なき遵法精神に富んだ市民が苦痛を味わいながら、事件の当本人――車の持ち主と泥棒――のほうは、ぬくぬくとベッドやバーにおさまり、責任をとってしかるべき苦悩とはまるで無関係にいることである。

それでもわれわれニューヨークっ子はその無礼千万な車に対して礼を失することもない。
ニューヨークでは、そうなのだ!巷の噂とは裏腹に、私たちは心優しき人々なのだ!
川底で故障した地下鉄の暗闇の中でも辛抱強く座りつづけ、騒ぎ立てたりはしない。
世界全体を自分専用のトイレとみなす輩が歩道に用を足した跡も、黙ってまたいで通り過ぎ、平然としたものわかりのよい顔つきをくずさない。

駐車している車からの絶叫に襲われたときは、自宅の窓を力まかせに押し上げ、ただじっとにらみつけるかもしれないし、歩道まで出て行き、隣人と笑顔で愚痴をこぼしあうことさえあるかもしれない。
しかし、誰も――誰一人として――鳶ぐちをボンネットやフロントガラスにふるって、あえて気晴らしをしたいと思っている者はいない。
遅かれ早かれ、かならず車の持ち主がもどり、車を開け、警報器のスイッチを切り、私たちのほうを見てバツの悪そうな薄笑いを浮かべるのがわかっているからである。

私たちのなかでも少し大胆な人は、ちょっと眉をしかめてみせるかもしれない。しかしそれが精一杯である。この街では誰もが厳しくセルフ・コントロールしている。
ニューヨークのような大都会では、セルフ・コントロールが厳しくなければならない。すこぶる厳しいものでなくては。
だからニューヨークっ子はやさしいのだ。ものわかりもいい。震えるほど自制している。年がら年じゅう、殺人をやりかねない状況にありながら、常に厳しく自分を抑えこんでいる。だから、やさしいのである。
(「心優しき人々」(『怒る楽しみ』河出書房 1992.7版)

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「都会のくたびれた年寄り」を書かせればボブ・グリーンとてひけはとらないし、いや、むしろボブ・グリーンのほうがセンシティブです。が、ペーソスもユーモアも混ぜ込んだこんな文章のほうが、私は読んでいて楽しく、昔から好きです。

上の抜書きでも「われわれニューヨークっ子」なんぞと共感煽りながら、いっぽうで「私は地方出身者で 都会にでてきたときに こんな違和感を感じた」の類のことを臆面もなく書きつらねた無節操さがよかった。ウケりゃ、なんでもアリだったよな、ジイさんよお。
『グローイング・アップ』さえヒットしなければ、きっとまだまだ、こんな文章をたくさん書き続けてくれたでしょうに。


(2005.05.21補記)
Baker's Book of American Humor「昔のラッセル・ベイカーって、面白かったよね」と感じていたのはどうもワタクシひとりではなかったようです。
アメリカで『Russell Baker's Book of American Humor』という編集者と共同作業で昔書き散らしたエッセイ文を編纂したダイジュエスト版が1993年に再刊行。そこそこのセールスを確保しました。10年経た今日でも、ポツポツとロングセラーを記録更新している模様。
ご興味のあるかたはご一読を。
2004.07.15初出
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