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ナンセンスは高級な笑い…なのか?本当に?(2)

(前話はこちら)
別役実は『別役実のコント教室―不条理な笑いへのレッスン 』のなかで、「ナンセンスとはシットコム並に高級な笑いであり、またシットコムとは別のカテゴリだ」とレクチャーしたあと、自作の「づくし」シリーズを引き合いに語りはじめます。文脈から解釈するに“別役実の作ったナンセンス・ジョークの好例”として、次の「したすさび」を挙げていることに間違いはなさそうです。
「すさぶ」というのは「なぐさめる」という意味であり、つまりこれは「舌をなぐさめるもの」のことである。直径2センチほどの、粗末なものは木製、上等なものは象牙製の球体であり、表面に精緻な線条の模様が施され、それを舌で探って確かめるという、一種の口中遊具であった。

現在では、飲み込んでしまわないようにこれに棒状の手をつけたものを、幼児の口中遊具として使用しているが、平安時代には一般の成人が(主として貴族であったが)これを用いていたのである。枕草子《おかしきもの》のくだりに
  したすさびの歯にあたりて、ことことと音のすなる
という一節があるのは、誰でも知っている。

口中遊具というものが、雲南から江南・中支を経て我国に及ぶ、照葉樹林文化における典型的な産物であり、他に類を見ないものであるということは、既に世界的に認められた事であるが、特に我国のそれは独自の発展を遂げたのであり、ここ近年「したすさび」が次第に注目を集めつつあるのは、そのせいである。
一般に知られているように、口中遊具というのは、「飢え」をなぐさめるための「擬食行為」として発展してきたものであり、他国においては、口中の圧迫感を楽しむ段階から、せいぜいその物の形、もしくは歯ごたえを楽しむ、までであった。つまり、舌でそのものの表面に刻まれた線条を読みとることまでするのは、我国だけなのである。

従来民俗学においては「飢え」への恐怖が強大な地域ほど、口中遊具の精妙さも増大する、という図式が考えられていたのだが、ここ近年、我国における口中道具「したすさび」については、その図式では割りきれないものがあるのではないか、という考えが出てきた。「したすさび」が平安貴族にもたらした美意識は、それが単に「擬食行為」として発達してきた事情を、はるかに超えているからである。もちろん、その連続性がまったく絶ち切られているというのではないが、「飢え」への恐怖とは別の要因が、その過程で突然入り込んできているに違いない。

この文章のどこがナンセンスなのだろう?ワタクシにはわかりません。
「痛いよ。笑うと余計痛い」が面白い古典ナンセンス・ジョークであると腑に落ちるワタクシですが、この「したすさび」からは
  うまく塗り固めた嘘
  上手に組み立てた虚構
  しれっとホラを吹く
面白さ以外のものを、感じることができません。
別役ファンからすれば「それは貴様が高級な笑いを感じるセンスがないからだ」ということに、恐らくなるのでしょう。
「したすさび」をして、これがナンセンスな笑いであり高級な笑いとはこういうものだ、とする別役実さんの態度へ、諸手を挙げ賛同できずにいます。


クリックするとAmazonのページが別ウインドウで開きますしかしナンセンス(不条理)についての解釈に違和感を覚える点を差し引いても、『別役実のコント教室―不条理な笑いへのレッスン 』がお笑いテキスト書きにとり刺激的な良書であることは、やはり変わりません。
たとえばアラバール『戦場のピクニック』を引き合いに、ストーリよりもプロットのほうにこそ笑いのツボがあることを述べる箇所など、わが意を得たり、です。
また喜劇作家・コント作家を目指す者必読の戯曲としてベケット、イヨネスコ、アラバール、オールビーらを挙げている点も、大いに賛同したいところです。機会あればこれら不条理劇作家も、いずれ触れるやもしれません。


集団を眼前に何千回という公演をこなし続けた喜劇作家だからこそ説得力をもつ、こんな一節もあります。ワタクシが感心した箇所のひとつを最後に引用します。
笑いというのには段階があって、まず忍び笑いですね。それから普通の笑い。次に爆笑。最後にうねるという具合にアップしていくんです。

忍び笑いというのはくすくす笑いですね。芝居でも落語でも、最初くすくす笑いっていうのをつくって、なんとなく観客のそれぞれがくすくすくすっと個別的に笑う。これを、最初にくすぐりを入れるっていうんです。この笑いは個別的ですね。観客のひとりひとりが別々に笑っている。このくすぐりで、笑いの生理を解きほぐすという手です。

それから普通の笑いですね。何かもう少しはっきりした笑える状況というのをつくって、わっと笑わす。この段階もまだ個別的なんですけれども、普通の笑いを繰り返していくことによって、おかしさというものが劇場全体に共有されていき、わーっと笑う爆笑というのにつながっていく。大体普通われわれがつくり出す笑いというのはここまでぐらいなんです。

実はこの上に、うねるっていうのがあるんですね。三木のり平さん(1923~99)に聞いたんですけれども、爆笑を何回か積み重ねて、集団で爆笑が連続して起こってくると、生理的に全部共有されちゃうんですね。すると客席全体が集合した人格になってしまって、笑いがとまらなくなる。わーっという爆笑がもう一つウォンとうねって、会場を支配しはじめることがあるんだそうです。僕はこれを経験したことがないんですけれども、文学座のアトリエで『天才バカボンのパパなのだ』という喜劇をやった時に、うねったかな、という感じが若干ありましたかね。
だけど本当にうねりはじめると、生理的にとまらなくなって観客は窒息死するといわれているんです。ですから、喜劇作家として最高の境地というのは、会場がうねりはじめて客が死ぬ。窒息死する。笑い死にですね。これが最高の境地なんです。「客を笑い殺す」、これが最終目標です。

「生理的にとまらなくなって観客は窒息死するといわれている」なんぞ、どこで仕入れた知識なんだか果てまた十八番の不条理と命名し広げる風呂敷なんだか、甚だ眉唾モノながら、その心意気は大いに見習いたいものがあります。
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