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ウディ・アレンの誉めかた

ウディ・アレン(Woody Allen)ほど誉められるコメディアンは、そういない。
いわく「毎年アカデミーやオスカーにノミネートされながら、一度も出席したことがない」
一度も出席していないという点では、ワタクシとて満たしております。ワタクシなんぞ、ノミネートすらされたこともない分、よりレコードとしては偉大じゃないか。
いわく「都会人の神経質な心理をシャレた表現で映しだしている」
そんなものが観たいのならば、街なかの精神科外来にゆけば、よりたくさんで生々しい神経質なクリエイターの自己表現を間近に見ることができます。


さてここで、わがマイクおじさんにご登場いただきます。
マイクおじさんの見識については平静常々一目おくワタクシであります。幸いマイクおじさんは、ウディ・アレンについても少々書き残してくれています。




その日は朝からの連続ハードワークで、気のめいるような映画は絶対に見たくなかった。
となれば、破綻した男女関係だのティーンエイジャーの殺人鬼だの現代フェミニストの欲求不満だのといった、近ごろ人気の映画のおおかたは必然的にはずれてしまう。
結局シカゴの映画評論家たちも絶賛しているウディ・アレンの新作『ブロードウェイのダニーローズ』が、その日の気分に最もふさわしい映画に思えた。

噂たがわず、映画は面白かった。
左隣に座った男は上映時間のほとんどを腹をかかえ笑い転げていたし、右隣の女性はひとつのギャグであまりに長く笑いつづけすぎて、次のジョークを3つ聞き逃してしまった。前の席の男は、あるジョークを聞いてのけぞるように飛び上がって笑いはじめ、ポップコーンをあらかた撒き散らしていた。
もちろん映画が終わったときも客の大半はまだ歯を見せ笑い、映画館を出るときにも映画のセリフを思い出してはまた笑っていた。

その後何日かは、私も友人をつかまえては『ブロードウェイのダニーローズ』を見た話をしたが、映画館へ足を運んだ者どおしで「あの映画は面白い」とやはり意気投合した。

だが、なかにひとりだけ「あんまりいい映画じゃないって聞いてるけどな」と首をかしげるやつがいた。
以前ニューヨークに住んでいた男だ。
「誰がそんなこと、言ってるんだ?」私が尋ねると、彼は数分後『ニューヨーカー』誌最新号を手に戻ってきた。
あの雑誌だ。凡人がとても及ばないぐらい洗練された“ニューヨーカー”とやらと、垢抜けた“ニューヨーカー”でありたいと願うイナカ者ご用達の、例のアレだ。
彼はどことなくすました口調で「この、ポーリン・ケールの評を、読んでごらん」と――同誌のその分野では最も深い洞察力を備えていると評判の映画評論家なのだが――言ってよこした。
間違いなく彼女は深い洞察力を備えている、と私も思う。これまでにも何度か彼女の書いたものを読んだが、ほとんど理解できたためしがない。

今回に限っていえば、曲がりなりにだが、私にも彼女の言わんとすることが理解できたような気がする。どうやら彼女はアレンの新作が気に入らないらしく、作品は「鼻につく映画だ」との酷評だ。
しかも彼女の気に入らない理由とは、驚いたことに「ウディ・アレンが観客を笑わせようとしているから」。

ケール自身の文を引用させてもらう。
「1970年代、ポスト・フロイト派の最初のコメディアンとして映画界にデビューしたウディ・アレンは、自らの不安心理を彼一流の道化に昇華し表現してみせた。
彼は自分自身の性的不安の精神状態をユーモアの基礎として導入した最初の表現者であり、人間の心の変遷をコメディに仕立て上げる。あらゆる人々に向かい語りかけるように、あるいはジョークを発するかのように、映し出した。
鑑賞者は、己のもつ防衛本能や劣等感あるいは自己撞着ともいえる野心を直接的に映し出す神経症的傾向のウディ・アレン映画の主人公に、同病の輩として親近感を得た。
だが文化的状況が激変した今日、最早ウディ・アレンはわれわれの内察態度について、なにも啓蒙してはくれない。
彼とわれわれの間に今や壁ができてしまっている。とくにこの『ブロード・ウェイのダニーローズ』では…。
彼は他のコメディの作り手同様、壁の向こう側に立ち、その壁をドンドンと叩いては、われわれを笑わそうとしているのだ。」

ニューヨーカーの気難しさがおわかりいただけるだろうか?
ここに、観客を笑わそうと映画を作る、ひとりのコメディアンがいる。
人を笑わせるのが、コメディアンの稼業だ。
コメディアンは、人を笑わせられないならコンビーフをスライスする仕事にすぐ就き、日々の生活の糧をとにかく間に合わせねばならない。
だがそんな考えはニューヨーカーに通用しない。ニューヨーカーの視点では、ウディ・アレンは「最早われわれの内察の態度についてなにも啓蒙してくれない」から、堕落したことになっている。

ということは、彼らニューヨーカーはずっと自分自身について、不安神経症ぎみのコメディアンに教えてもらっていたのか。とすれば、ニューヨーカーという人種は、並外れて風変わりな人間の集まりである。私自身について、会ったこともないウディ・アレンがどうやって教えてくれるんだ。

これまで長年彼の映画を見つづけているが、私自身について彼から学ぼうなど考えたことは一度とてなかった。自分について感じたいなら自分自身に問いかけるし、ひょっとして夜遅ければバーテンダーに尋ねることもあるかもしれない。

正直、アレンの映画を見て、彼の神経症的な問題やかかえる劣等感に、同病者として親近感を覚えることなど一度もなかった。アレンは馬鹿にされることをシャレのめしていると思っていたので。
だってそうじゃないか。
ダイアン・キートンの実生活の恋人が劣等感を抱くなど、普通ちょっと考えにくい。
(Like I Was Sayin'... 1985 を意訳)




ウディ・アレンをとりまく言説で、これ以上的を射た物言いに、ワタクシはお眼にかかったことがありません。ウディ・アレン自身が生粋のニューヨーカーを自負しているのを知っていれば、なお楽しめるというもの。
「寅さんのどこが人情深い?間抜けなテキ屋じゃないか」
育ちの悪い下町のおっさんのしゃべりと同じ、足が地についた、だがシャレっ気も飾りっ気も身もフタもない語り口が、ここにはあります。


そう。
ボクらのウディ・アレンで――往年のマガジンハウスに敬意を表し敢えて「ボクらの」と――誉めるべきは、「都会的会話」だの「神経質で繊細」だの、そういうトコじゃあ、ないのです。
めくらどもめ。
2004.07.31初出
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