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大きな箱で演りたがらない理由(1)

ここ四半ヶ月ほどの間に二席の「追善落語会」に寄せさせていただきました。ひとつは「桂枝雀 七回忌 追善落語会」、もうひとつは「高津宮くろもん寄席 桂文枝 追悼特集」です。

あなたがひょっとするとあまり関西の落語事情に詳しくないかたかもしれませんから、追悼される噺家の概略を補記します。ご存知の向きはお読み飛ばしください。


桂枝雀は、桂米朝一門下では最も人気があり、持ちネタも師匠・米朝に次ぎ多かった実力派噺家のひとりです。「枝雀」の襲名としては二代目。米朝師匠の律儀で几帳面な噺の技術をきちんと基礎として修得した上、さらに自分流の演技・演出を模索。ちょっと血のめぐりの悪い登場人物(東京落語でいう「与太郎どころ」)を本当にバカバカしく大きな仕草と表情をまじえ演じさせれば当代一、「爆笑王」の名でファンも多かった落語家です。CDで聞くよりもDVDで見るほうが面白く、DVDで見るよりは間近で演じてもらうほうがさらに面白い芸風で、大人気を博します。
ロスやハワイで上方落語を英語で演じるなど、新境地の開拓にも熱心な噺家でした。
師匠・桂米朝が「上方落語復興の立役者」であるならば、桂枝雀は「米朝一門の立役者」と言ってよいでしょう。
「笑いとは緊張が緩和したときに生まれる」――これは枝雀の金言として、弟子はもとよりファンの間でも既知とされる、枝雀式笑いのスキームです。
かたや「稽古の虫」と渾名づくほどよく稽古をする努力家で、また飄々とした風貌とは裏腹にたいへん躁鬱の激しいかただったそうです。
1999年11月、自殺。


桂文枝は上方落語界では由緒ある名で、先の3月12日鬼籍へはいられた文枝師匠は五代目の襲名。
「はめもの」と呼ばれるお囃子を鳴らしながら賑やかに演じるネタは逸品でしたが、ご高齢になってからはさすがに賑やかなネタを演じることは少なくなりました。よく通る朗々とした綺麗な声で新作/古典ともによく通じ、正統も新作も流麗にこなし笑わせることのできるかたでした。
他の“四天王”と呼ばれる師匠とはまた違った側面で上方落語や関西弁へのこだわりがあったようで、口述筆記の自著『あんけら荘夜話』内にて、弟子にする目安として自分はこう決めている、というようなことを残しています。
私の場合、弟子をとる基準で一番ネックになるのが「なまり」です。言葉に「なまり」があったら、まずあかん。広島から来た子やとか、関西圏でも城崎から来た子や小豆島から来た子にもなまりがありましたよ。
そういう子らには「無理してはなし家になったって、しんどいことやから、やめといたほうがええ」と言うて帰らしました。昔から「はなし家は近畿二府五県の中に入っておれば大阪弁にもなんとか馴れてくるもんやが、その他の出身者はあかん」と言っていましたからね。

松鶴、米朝両師との交流も盛んだったようで、弟子がしくじる(なにか師匠のツラ汚しになるような失敗や事件をおこしてしまうこと)と互いに師匠として仲介し破門を撤回するようとりなしたり、あるいは弟子が稽古したネタを見てもらおうとすると
 「そのネタやったら米朝君トコでつけてもらえ(一遍自分で覚えた芸を見てもらい、マズいところを指摘してもらえ、という符牒)」
などのやりとりもある仲だったようです。なぜか春團治のことはあまり出てきません。
文枝師匠は、拙宅が高津神社の近所なこともあり、幸いにも噺を聞きにゆく機会の多かった「名人」で、私には最も身近な“四天王”でした。昨年夏の恒例「高津宮寄席」での様子を、このサイトでもご紹介しています


ここで二席の追善落語会を持ち出したのは、それぞれの一門の「話芸の楽しませ方」がたいへん対照的で、おなじ「古典演芸・落語」でくくられてしまう中にも、いろいろな興業趣向がありますよ、ということをあなたへお届けしたく、ここに書き残しておこうと思ったためです。(つづく)
2005.06.19初出
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