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James Thurberのスポークスマンにあらず

またもやハウツーものネタをご紹介します。
どうせご紹介するのならば、せっかく時間をいただき読んでいただいている皆様へサービスすべきであろう、そう、このページを読み終わった途端に即役立ちつい一度は試してみたくなるような実用情報を提供すべきではないか‥‥そう思い立ち、芝刈機の操作法をご案内します。
あなたの愛家に芝生があろうがなかろうが、それは関知するところではありません。



御愛用者各位(〜うちの芝刈機の“本当はこう言いたかったんだろ?”版マニュアル〜)

弊社の動力芝刈機の一愛用者となられたことを、お慶び申しあげます。え?“一愛用者”はないだろう、これだけの機械を買った客にはもっと謝意を表したらどうだ、とおっしゃる?フフン!おたくの芝生が平均的マイホームよりちょいと広いというだけで、すぐにこれだ。この機械のうしろをのんびり散歩していけば、きれいに揃った緑の刈り跡の帯がすいすいできあがっていく気でいるんだ……あんた、自分を何様だと思ってるんです?こいつぁうちの芝刈機ラインナップでもいちばん安物でね、あんたのようなカモを釣りあげるため、わざわざけばけばしい色に塗ってあるんだよ。

この際だし知っといたほうがいい、大邸宅やゴルフ場にあるあの「本物の芝生」には、「本物のダークグリーンの芝刈機」磨きあげたピカピカのスチールの腰掛けの上に人が乗って動かす、あれでなくちゃ刈れないってこと。そう、50年前にうちが作っていた昔の芝刈機、頑丈で、高性能で、孫子の代までびくともしない、あれ。
ところが、当節はやりの平等主義と経済成長とやらで、あんたら向きのちゃちな機械をいやいや作る羽目になった。なにしろ、古くからの格式高いお得意様相手に本格芝刈機の修理だけやってたんじゃ、工場が遊んでしまうんでね。
でも、まあ、せっかく買ってくれたんだし、いちおう参考のために、使い方の心得を少し教えとくよ。

始動(A)エンジンが冷えているとき
1. プラグをはずす。そのブリキの小さな出っぱりには気をつけたほうがいい。急にスパナがはずれたとき、指のつけ根をザックリやられるよ。スパナもワン・セットつけておいてやったからな。鉛でできてるけどな。

2. プラグを掃除する――もしできるなら、の話
オイルをガソリンの中へ混ぜる方式なので、プラグがオイルでびしょびしょになるのは当然のこと。このエンジンには独立した潤滑系統はない。あんた、ひょっとしたらこう考えてるんじゃないかな。オイルはガソリンの蒸気といっしょにシリンダーの中で燃焼するはずなのに、煙でどうして潤滑の役が果たせるのだろう、と。まあ見てもらってればわかってると思うが、オイルは燃焼なんかしてくれない。プラグを濡らすだけだ。

3. シリンダーのいちばん下のナットをはずすと、オイルがだらだらこぼれてくる――ほらほら、まだ芝生の上へ出しちゃいけなかったんだよ。
  つぎにナットをはめなおす――おっと、あんまりきつく締めちゃだめ。シリンダーの底も鉛でできてるんだから。
  あ−あ、ネジ山をつぷしちゃった。しようがないから、いちおうネジのとまったとこでがまんするんだね。
 3a あ、いまのナットにワッシャーをはめるのを忘れたな?だからネジ山をつぶしちゃったんだ。自動車の修理工場へ行ってもそのサイズのワッシャーはないから、早く草の中をさがしたほうがいい。

4. プラグをさしこむ。こんどはほかの指に気をつけて。
  あ、ったく!言わんこっちゃない!また、おなじ指をやりやがった。
  あんまり堅く締めないようにな。これ1回ですむと思っても、そうはいくもんか、今度はずすとき、苦労するぞ。

5. スターターを踏む(べつの型なら、ロープをひっばる)。もう一度。チョークをしぼって。
  もう一度。
  もう一度。
  もう一度。
  スロットルをしぼって。
  もう一度をだいたい平均27回、スロットルとチョークのあらゆる組み合わせを試してみること。

6. ガソリンのコックが開けてないよ。バカ。

7. 5.をくりかえせ。つぎにl.−4.をくりかえせ。ブラグが前より湿ってきたぞ。

8. 5.をもう一度くりかえせ。くたびれたら、横になってすこし休もう。

9. ギアを入れたまま機械を押し、思いきり走れ。


始動(B)エンジンが熱いとき
このエンジンは、熱いままで始動させることができない。どうもオイルの蒸気と関係があるらしい。使っている途中でスコンと止まったら、もうそれっきり。エンジンが完全に冷えるまで待ち、また最初からやりなおすことになる。とにかく1秒たりとも手をはなさず、エンジンをふかしつづけること。

刃の調節
この機械の刃は、草の葉の先端をかすかに撫でる位置と、地面をぐっさりえぐる位置までのあいだの、紙一重の微妙な調節がほどこしてある。
まず、新しい電気のスィッチを使って練習をする。電灯が「入」と「切」の中間でちらちらまたたく位置が的確につかめるような腕になるまで、刃をどうこう動かすのはよしたほうがいい。とにかく、細心の注意を払い神経質に‥‥とはいわないまでも、実にデリケートに作ってやってるのを忘れるな。ほんのちっぽけな石ころがはさまっても、刃がひんまがることがある。そんなときは、この世のものとも思えぬ絶叫のようなものすごい音がするか、刃が全く回転しなくなるからすぐわかる。
そもそもうちが「ちゃんとした芝刈機」を納入している「ちゃんとしたお得意様の芝生」には、小石1つ落ちてやしないんだよ。ましてや、どこかの家のように、おもちゃの機関車や人形のブーツやプラスチックの積木や釘やスプーンが散らかったりしてるわけがない。

操作
たえず小走りをつづけなければ、この機械は操作できない。ふつうに歩く速さだと、エンストを起こす。
また覚えておいてほしいが、この芝刈機のクラッチは自動車のクラッチのように段階式じゃない。クラッチを入れたとたん芝刈機はあんたが居ようが居まいが、どんどん走りだす。だから、あんたが丹精こめているくだらないちっぽけなバラの円形花壇、あれのまわりをこいつで刈ろうなんて気を起こしちゃいけない。この機械は一直線にしか刈れないようにできている。ヘたにカーブさせようもんなら、土を掘るだけだ。だって値段が値段だもの。まさかあんた、この値段で差動装置がついてると思ってたんじゃないだろうね?

お手入れ
バネ蓋のついた小さな仕掛けがあちこちにあるが、それが注油口だ。この穴は、どんな細い油差しの口も大抵入らないようにできている。だから目をつむりそのあたりじゅう一面に油をジャンジャカふりまき、いくぶんかが中へはいってくれることを祈る。
どのみち、こんなバネ蓋はすぐにもげる。あとは、油でべとべとになった芝でふさがれた小さい穴が残るだけだ。

最後に、3つの鉄則
Golden Oddlies1 ワッシャー、バネ蓋、ナットなどをさがすときのために、磁石を用意すること。
2 ぜったいにエンジンをとめないこと。
3 芝刈り鋏を捨てないこと。
Paul Jennings "Stopping and Mowing" ---"Golden Oddlies : Methuen Publishing Ltd., 1983  を私訳。適宜改行。

このネタの作者、ポール・ジェニングスについてのオンライン情報には、本当にうんざりさせられます。
あるサイトでのポールはオーストラリアの大臣経験者だし、別のサイトのジェニングスはテキサスでIT系会社のスタッフを永年勤め続けていることを自慢げにしたため、あるいはシカゴ旅行を夫婦で楽しむかと思えば、amazon.comでのPaul Jenningsはいまだ現役で上梓し『Uncovered! 』だの『Tongue-Tied! 』『Unmentionable! 』だのお世辞にも上品とは言いがたい著書名でセールスレコードを記録中のみならず『International Handbook of Earthquake and Engineering Seismology (International Geophysics Series) 』と銘打った芝刈などというエコロジストを逆撫ですること請け合いの内容の著書もあり、現在も続々刊行し続け、バリバリ出版業に勤しんでいる‥‥ということになっています。
そんなバカな。
かように、無料でだだ流しされるオンライン情報など、半ば眉唾で調べるべきです。


よろしい。
このページを読んでいただいているあなたにだけは、真実を、お伝えしましょう。
しかも無料で。
ご通読前に眉に唾液をつけやすいよう、あらかじめ少々口腔内に水分を含んでおくと、より便利ではないかと思います。また指先はよく洗浄しておいたほうが衛生的でしょう。


ご紹介の芝刈機マニュアルの作者/ポール・ジェニングスは、Oddly Enough(オッドリー・イナフ)シリーズでまずイギリスでそして少し遅れてアメリカで名を挙げました。物書きになるまで随分いろいろと職業を変え、イギリス陸軍には長く居り中尉まで階級をあげたとのことなので、まんざら無能な軍人でもなかったようです。軍所属時代から『punch』『Spectator』などに寄稿し始めました‥‥って、いいのか?そういうの?陸上自衛官が『GON!』に不定期コラム連載するようなモンじゃないの、それって?どうよ?イギリス陸軍関係者?それも例の「イギリス式ユーモア」とかいう代物で片づくの?
寄稿が原因かどうか不明ですが――たぶん違う‥‥いや絶対違う――退役後は2年ほど広告代理店でコピーライタを経験ののち、しばらくほうぼうに書き散らす売文フリーランスでしのいでいましたが、めでたくオブザーバの編集スタッフのお声がかかり、以降編集者として活躍、たまにはコラム記事や編集記事を署名入りで載せ続けます。出世作『Oddly Enough』は、このオブザーバ紙での掲載記事をまとめたものです。
 ●ジョーク誌に寄稿開始 。
   ↓
 ● フリーランス売文業者に。まあ喰うには困らないていどには稼ぐ。
   ↓
 ●メジャー紙に迎えられ不定期連載開始。大衆のみなみなさまからも大きく拍手喝采。
  でもネタは(紙面ポリシーのせいもあり)歳経るごとにてんでクソ真面目風になりやがって、ばかやろう、しくしく。
というこの職歴を見てゆくと、ラッセル爺さんのプロフィールとどこかしらカブる気がしてなりません。尤もこちとら1989年12月に旅先を冥土へ移しておられますが、ラッセル爺さんときたら、いまだ
 「functional(機能的である、合理的である、ぐらいの意味かな?)も結構だが
  人情味を忘れちゃあ困るねえ、昔ぁもっともっと人情味があって‥‥」
てなことを達者に怪気炎吐いていらっしゃいますですよ。
そういえば、ラッセル・ベイカーも“observer”でしたな(←微妙に分かりにくい地口)。


ポール・ジェニングス。
オーストラリアやテキサスの田舎者でもなく、ナショナル・ジオグラフィックとも関係ないほうのその名が最も頻出するのは、由緒ある総合紙オブザーバーの編集者としてでもなく、歴代『Oddly Enough』執筆者としてでもなく、じつはジェイムス・サーバ(James Thurber)の作品を上手にコンパクトに説明した人、としてなのです。

He somehow gave us a sense of revelation ... He created a genre and was a giant in it.


このワンフレーズが、オンラインで最も頻出するポール・ジェニングスの正確な情報です。
ジェイムス・サーバをうまく語れた人。
ただそれだけで世紀を越えポール・ジェニングスはその名を残してしまいました。少なくともWeb上で何かコンテンツを作り、残そうとしている人々は、そう思っているようです。

だがワタクシは「芝刈機のマニュアルネタを書いた人(ほかにもトースター、自転車などもアリ)」として、ポール・ジェニングス(Paul Jennings)の名とそのネタを残しておきたいのです。
ジェイムス・サーバを誉める人は後年にもたくさん居ますし、もっと上手に表現できるかたが、これからも登場することでしょう。
しかし、バッタもん芝刈機のマニュアルを正確に記載できる人は今世紀以降おそらく輩出しないだろうと思います。その希少性と面白さこそ、ポール・ジェニングスの功績として且つ誉め上手なだけでなく本当に溢れる文才の持ち主だった記録として残しておくべきものではないかと、ワタクシは考えるのです。
2005.06.05初出

お笑い文豪ビギナー体験講座へ ようこそ

以前どこかに、お笑いテキストの笑える賞味期限は最長でも100年ていどだと書いたことがあります。
100年以上経てしまうと、言葉遣いが変わってしまうため、その時代の瞬間を固定化する「書き言葉」にあっては、面白味が通じなくなってしまうのです。落語などが100年以上前の話芸を維持できているのは口承伝承ゆえの強みであって、演者が時代に応じクスグリを入れ替えときには話そのものも変形させたからこそ、今日でも笑うに耐えた状態を維持しているのだといえます。
時間の試練とは、誠に過酷です。

そんな中、100年以上も前のネタながら、今でも面白いテキスト書きとしてその作品が残っている人も僅かながら、存在します。
ステファン・リーコック(Stephen Leacock)は、数少ない、名を残したユーモア作家のひとりです。




小学生は、算数のはじめに加滅乗除の四則をおぼえ、小数と分数をようやく征服すると、自分の眼前に果てなき問いかけの大平原が続いていることを知る。
この質問には「問題」という名がついている。
どれもが冒険と努力を扱った短篇小説で、結末がはぶいてある。
どれもよく似かよっているが、あながちロマンスもないわけではない。
これら「問題」のプロットには、A、B、Cと呼ばれる三人の人物が登場する。
設定はたいていこんな感じではじまる短編だ。

「AとBとCがある仕事をすることになりました。Aは1時間にBの2時間分の仕事、Cの4時問分の仕事ができます。3人はどれだけの時間、はたらきましたか」
あるいは
「AとBとCが溝を掘ります。Aは1時間にBが2時間かかって掘る長さの溝を掘り、BはCの2倍の早さで溝を掘ります。3人はどれだけの長さの溝を……」
はてまた
「AはBやCよりも速く歩けると言い、賭けをしました。AはBの1.5倍の速さで歩き、Cはのろのろと歩きます。3人はどれだけ遠くまで……」

AとBとCのすることは、種々さまざまでは、ある。
これもひとむかし前の算数のころは、3人はいつも「ある仕事をする」で満足していた。しかし、この表現はどうもあいまいだ謎めいている、それともロマンチックな魅力に欠けている、とかなんとか見なされたらしく、最近は競歩だの溝掘りだのボートレースだの薪割りだのと、はっきりなにをするか記載するのが文壇の主流となりつつある。
ときどき3人は商売っ気を出し、いにしえの太古よりひきずり続ける謎の「ある金額の」資金をもとに、共同経営で店をはじめることもある。

ともあれなによりも、3人は、体を動かすのが大好きだ。
競歩に飽きると、Aは自分だけが馬か自転車に乗り、気の弱い2人の友人をとぼとぼと歩かせ勝負を挑む。つぎは機関車競走、おつぎはボートレース、それともぐっと古風な趣向で駅馬車を借りるか。ときには川へ出かけ泳ぐ。
遊びをやめ例の「何かの仕事をする」にしても、ポンプで水を汲み上げ水槽を満タンにするような肉体労働を好む。3つの水槽のうち、2つは底に穴があいていて水が漏り、残りたった1つの水槽だけは一滴の水も漏らない。もちろんAが漏らない水槽をとる。
それだけではない。
Aはいつも自転車を独占し、いちばんいい機関車を選び、川下へ向かって泳ぐ権利を確保する。3人はギャンブル狂で、なにをやるにしても金を賭けたがる。
そしてAがつねに勝つ。
算数の教科書のはじめのほうでは、この3人の正体はジョンとウィリアムとヘンリーという名前に隠れ、よくビー玉の分配でいさかいを起こしていた。代数では、X、Y、Zと呼ばれることも多い。しかしこれらはただのクリスチャン・ネームであり、実はまったく同一人物だ。


さて、算数の「問題」の果てしないページの大平原をヘトヘトになりながら彷徨い、この3人の歴史を追い続け、彼らが余暇に薪を持ってふざけあい、穴のあいた水槽を満たそうと汗を流すのを見守り続けてきた我々にとって、この3人はただの記号以上の存在となる。我々同様に血肉をそなえた生きもの、情熱や野心や欲望を持った人間として、親近感を持つ。
それでは、この3人を順々に見ていこう。

Aは、血の気が多くて鼻っぱしが強く、やたら馬力があり、短気で強引だ。何かをやろうと言い出すのは必ずこの男で、Bに力くらべを挑み、賭けを申し出、ほかの2人をむりやり自分のゲームに引っ張りこむ。Aは抜群の体力と稀に見る持久力の持ち主でもある。48時間歩き続けたこともあれば、96時間ボンプを動かし続けたこともある。その生活は目のまわる忙しさで、しかも危険がともなうこともある。あなたのちょっとしたケアレスミスで合計値を誤ってしまえば、2週間不眠不休で溝を掘ることにもなりかねない。万一、答が循環小数になったりしたら、命を落とす可能性すらあるのだから。
Bはおとなしく気のいい男で、Aを怖がりいつもAに威張りちらされているが、弱虫のCに対してはとても優しい兄貴分だ。だが賭けの負けがかさみスッカラカンで、Aには頭があがらない。
かわいそうなCは、うら悲しい顔をした小柄で虚弱な男。絶えず不利な環境下で競歩だ溝掘りだ水汲みだのをやらされたためか、最近体調をくずし神経も滅入っている。憂さばらしにと酒を浴びるようにあおりタバコをふかし続けるためか、ますます不健康に拍車がかかり、今では溝掘りの最中にも手が震える始末。Cには他の2人のような体力がない。いみじくもハムリン・スミスが書いているように「Aは1時間にCの4時間ぶんの仕事をやってのける」のである。


わたしがはじめてこの3人を見かけたのは、ある日の夕方、ボートレース直後だった。
3人はボートで競走し、Aが1時間にBの2時間ぶんまたはCの4時間ぶんの距離を漕げるのが明らかになったあとで、BとCはもうへとへと、おまけにCは咳がとまらない。
「なあ、心配するなよ」とBがCを励ましているようだ。「すぐにソファヘ寝かせ、アツアツの紅茶を作ってやるよ。」
ところがそこへAが颯爽と現れ大声で呼びかけるのだ、
「お−い、ハムリン・スミスにやつんトコの庭の水槽を見せてもらって来たぜ。
 明日の晩までポンプを使ってもいいんだとさ。
 賭けてもいいが、ふたりが束になってかかってきても、おれは勝てる。
 さあ、こいよ。
 どうせ汗になるんだ、ボートを漕いだときのそのままの服でいいだろ。
 ああ、そうだ。
 きみらの水槽はすこし漏るけどな、C。」
それはあんまりじゃないか、おまけにCはクタクタなんだぜ、とBが文句をいっている声が聞こえたが、結局は、3人揃って出かけてゆく。まもなく、水音から判断しても、AがCの4倍も早く水を汲み上げるのがわかる。
それから何年ものあいだ、しょっちゅうこの3人を町で見かけたが、いつも忙しげだった。中の誰かが食事をしたとか、睡眠をとったとかいう話はあまり聞かない。

そのうちに、こちらの都合で長く家を空けることになり、しばらく3人にも会えなくなってしまった。
ひさしぶりに町へ帰りいぶかしく思ったのは、AとBとCのあの忙しげな姿が見あたらなくなってしまったことだった。かつての馴染みに話しついでに尋ねてみたところ、今ではその方面の仕事はMとNとOがやっており、代数の仕事には、α、β、γ、δという名の4人の外国人が雇われることもあるという。

たまたま通りを歩いていると、昔なじみのひとりDが、自宅のつましやかな表の庭で草とりをしているのを目にした。Dはもう高齢で、ときどきAとBとCだけでは手不足な場合、たのまれて仕事を手伝っていた男だ。
「あの3人を知ってるかって?」とD。「むろん、知ってますわい。まだあの3人が括弧にはいってたガキの時分からね。
 A坊ちゃんは豪儀ないい若い衆だが、気立ての優しいのは絶対にB坊ちゃんだと、わしゃあ、いっつも、そう言ってたもんさ。
 そう、そうそう。あの頃はみなでいろんなことをやりましたなあ。
 けど、わしが仲間入りしたのは“単純な肉体労働”てやつだけでしたぁね。
 レースだのなんだのはご勘弁ねがったね。
 いまじゃこんなに年とって、情けない話だが、体がいうことを利かねえ――この庭で土いじりでもして、対数の花を咲かせたり、公分母の苗を育てるぐらいが関の山じゃ。
 ユークリッド先生だけは、命題を出すときに、いまでもわしをお使いなさるがねぇ。」
この老人の長話から、わたしは昔の知りあいの悲しい後日談を聞いてしまうことになる。


長い長いD老人の話をかいつまむと、わたしが町を離れ間もなく、Cはまだ弱った体調にも関わらず、例によってまたAとBが賭けをし川でボ−トをこぐことになり、Cはバンク(堤防)上を走ったあとドラフト(吹きっさらし)に長くすわっていたようだ。さらにバンク(銀行)はドラフト(手形)をはねつけ、バンク&ドラフトのダブルパンチが、Cにはかなりこたえたらしい、AとBが家に帰ってみると、Cがベッドでぐったりしていたという。
Aは乱暴に彼を揺さぶり、起きろよ!C!いまから薪割りだ!とうながす。
Cの疲れ果て辛そうな様子に、Bは反対したらしい。
「おい、待てよ、A。
 いくらなんでも、ひどい。
 今夜のCは、とても薪割りなんかできる体じゃない!」
するとCが弱々しい微笑を浮かべ「ベッドの上で起きあがれたら、なんとか付き合えるがな…」
これを聞き、Bはすっかり動転した。
「こりゃただごとじゃないぞ、A!
 ぼくは医者を呼んでくる。
 このままほっといたら、Cは死んでしまう!」
Aはかっとなって答える。「医者を呼ぶ金もないくせに!」
Bはきっばりいいかえす。「無理数を承知で、いちばん少ない小数にしてくれとたのんでみるさ。それならなんとかなる。」

このときでも、治療次第ではまだCの命は助かったのかもしれない。ところが、投薬ミスが発生した。ベッドわきの括弧の中に入れてあった薬を、看護婦がついうっかりしてプラス・マイナスの符号を代えず括弧からとりだす計算ケアレスミスをしでかした。因数分解の初歩でよくあなたも失敗した、例の、あれだ。
この大失敗のあと、Cの容態は急変してしまう。
あくる日の夕方、小さな部屋にも夕陽の影が差し込むころには、Cの臨終が近いことは誰の眼にも明らかだった。さすがのAも塞ぎ込みうなだれ、これというあてもなく、Cの辛そうな呼吸数のことで医者に賭けを申し込んだという。
「……A。」Cはささやいた。「ぼくは……、すごい速度であの世へ旅立とうとしてるようだ……。」
「どれぐらいの速さだ?」とA。
「さあ……わからない」とCはいった。「だけど、なんだか、すごい速さだよ…」
束の間Cは気力を奮い起こし、やりかけのままのあるひとつの仕事のことを尋ねた。Aは後は引き受けたからというと、Cは安堵の微笑をほんのり浮かべ、静かにゆっくりと、息をひきとった。
Cの魂が天に駆け昇るあいだ、Aは悲しみと賛嘆をこめ、その飛行速度を計測した。
Bはこらえきれずわっと泣き出した。
「あの小さい水槽も、Cがいつもボートを漕ぐ時に着ていた服も、どっかへしまってくれ!
 もう、ぼくは、二度と溝を掘る気にはなれない!」


Cの葬儀は簡素なものだった。
ささやかな葬式は通例のものとまったく変わりはないが、往年からのギャンブル・ファンと数学者たちに敬意を表し、2台の霊柩車をAは手配した。どちらの車も同時に出発し、Bの運転する車には薄倖の友人の遺骸を納めた黒塗りの平行六面体を載せた。Aはカラの霊柩車を運転し、スタート時に気前よく100ヤードのハンデに同意したものの、結局Bよりも4倍早く車を走らせ、Aは墓地に一番乗りした。
墓地までの距離を答えなさい。

石棺が安置されたあと、お墓のまわりにはユークリッドの第1巻からやってきた循環小数がとぎれることのない長蛇の列を作り故人を悼んだという。

Cが亡くなったあと、Aは人がすっかり変わってしまった。Bとの競争にも興味を失い、溝掘りにも気乗りしない様子だった。そのうちにとうとう請負仕事をやめ引退し、いままで賭けで稼いだ金の利子で暮らすようになった。
BはCの死のショックから二度と立ちなおれなかった。悲しみのあまり、次第に頭がおかしくなってきたという。いつも気分は塞ぎ込みがちでモノシラブルの単語しか目にしない。みるみるうちに病状は悪化し、やがて初心者にも決して難しくない規則的な単語しかしゃべらなくなった。本人も自分の不安定な状態に気づき、自発的に精神病院への入院を希望した。入院してからのBは算数をかたくなに避け、『スイス家族ロビンソン』を1シラブルの単語だけで書ぎ綴る仕事に没頭したという。

Laugh With Leacock, "A, B, and C" (Kessinger Pub Co;)より私訳。適宜改行。
訳にあたっては、浅倉久志氏の翻訳を参考といたしました。)



ステファン・リーコックというと、ホームズ物のパロディ・パスティーシュ先駆者のほうが先に思い出される向きもあるやもしれません。
とても多才な学者さんで、面白いテキストも学術テキストもたくさん残してくれています。カナダではちょっとした文豪扱いだとか(http://www.collectionscanada.ca/leacock/index-e.html)。
ご多分に漏れず「マーク・トゥエインの再来」の称号もいただいております。この頃の文壇批評家は、上手に面白く書けるアメリカ人をみんなそう誉めれば世論が納得したらしい。私が知るだけでも少なくとも20人は“マーク・トゥエイン再来”呼ばわりされたはずだ。
しかもカナダ人だよ、ステファン先生は。さらに言えば、生まれは本国グレート・ブリテンだってば。


なぜか日本語訳されるとき“スティーブ”リーコック、と表記されることがあるようです。なにか理由があるのでしょうか、ご教示伺いたく。
(2005.05.04 初出)

アーウィンのランチ

2人はカウンターにすわった。カウンターボーイが注文をたずねに、すぐやってきた。

この店で2人はかつて冬のあいだ、昼の12時ころになるとマティーニを飲み、いつまでもおしゃべりし、ほかのテーブルにいた客たちがふりかえって微笑を送ってよこすほど大きな声で笑いあった。
ローレンスはここにあった店についてハリエットが何か言うのを待ったが、彼女はなにも言わなかった。「エディのバーだった」とローレンスは言った。
「そう」ハリエットはそっけなくうなずいた。
「彼はフレンチ・ヴェルモットを切らしてしまうと、シェリーでマティーニをつくろうとする」
「いやだわ」彼女は顔をしかめた。
ボーイがいらだたしげに注文を催促した。ローレンスは迷惑な顔をした。「特盛と並盛」
「ポテトサラダもいただくわ」ハリエットがつけくわえた。
「はい!オーダーはいりまぁす!特盛一丁ぉ!並一丁!」
「ありがとうございまぁす!特盛一丁!並一丁!」

「朝、ぼくたちはベートーヴェンを聞きながら、食事をした。『名曲の時間』。WNYC放送。9時から10時まで市長閣下の特別許可を得たベートーヴェンの音楽」ローレンスは一瞬、眼をとじた。「小さな花、恋人たちの市長か」
「ねえ、ロイ」ハリエットは哀願した。「昔のことで、素敵なことだったし、終わってしまったことなのよ」ハリエットは焙煎ごまドレッシングの封を切った。
「あ、らっしゃいませぇ〜混みあいまして恐れいりま〜す、こちらの席でお願いしまぁす」
「らっしゃいませぇ!」
「お待たせしましたぁ!こちら特盛、こちら並盛です! ごゆっくり、どうぞぉ!」

ハリエットがすこしほほえんだ。
「おかしい?」ローレンスはたずねた。
「少しも待たせていないわ」
「そうだね」ローレンスは頼まれるまえからハリエットにスパイスを差しだすことがまだできた。
「‥‥あなたはあらゆることについて、ご自分の考えをわたしに教えてくださったでしょう。ルーズヴェルト、ジェイムス・ジョイス、イエス・キリスト、ジプシー・ローズ・マリー、マティス、お酒、建築‥‥」
「あのころは評論家きどりだった」ローレンスはいささか後悔じみた苦笑をもたらした。「欲望と会話。両性間の文化的な関係の強固な基礎」ローレンスはブラウンに染まるオニオンを口もとに引き寄せた。「ぼくらの部屋の窓からは、フィフス・アヴェニューの高架がまだ見えた」
「特盛をいただくのは、わたしよ、ロイ」
“ただいま当店では朝定食キャンペーンを実施しています!納豆定食にのりをつけ、1ドル98セントでご奉仕中――”
「ありがとうございましたあ!またお越しくださいませ!」

「わたし、結婚したのよ」
「聞いたよ」ローレンスはそっけなくこたえた。「この店も、明るくなった。明るすぎるぐらいだ。エディの店じゃない」
「ときおり」席を立ちながらハリエットがつぶやいた。「どうしてここにいるのかって、思うことがあるわ」
ハリエットのひとことは、店の中にいる者すべての気分を言いあらわした。


2人は店を出るとひとこともかわさず、互いにゆっくりと反対の方向へためらいがちに歩きだした。店に残した品のいい香水の残り香は、せわしげにボーイが運ぶ牛皿定食のタレの臭いに、すぐかき消されてしまった。
(訳:常盤新平風)

初出:2003.07.13第28回嘘競演 お題『12時』

米国お笑いの名門「おすわり家」

「戦争ごっこ大好き!」の現米国大統領・薮氏は、そのお父さんもかつて副大統領や大統領を勤めたのをご記憶でしょうか?つまり薮家はいわゆる政治的「名門家」のひとつなわけです。そう思えば、バカ息子があちこちで愚策を施そうと
「ま、しょーがあんめぇ。2代目っつーのは坊ちゃん育ちでマヌケなモンだかんな。」
とあきらめ顔のアメリカ百姓の顔も浮かぶというものです。

どの職業・カテゴリでも名門と称してよい家系、というのが、このようにあるもの。
お笑い売文業界となると、さすがにカテゴライズが細かすぎるせいか、マーケティング規模の比較的大きい英米語界ですらも少ないように思います。そんな中、ベンチリー家はアメリカお笑い物書きの「名門」扱いをしてよいのではないでしょうか。


4代目は寡聞にして存じませんが、3代目ピーター(Peter Benchley)は、作家・脚本家として映画好きの中では有名な存在だそうです。どれほどジョーク・センスがあるかはわかりません。またお笑いを標榜した作品を現在目にすることもあまりありません。しかし興業センスは抜群で『ジョーズ』『ザ・ディーブ』『The Girl of the Sea of Coetez(邦題「大統領の切り札」井上一馬訳/晶文社)』などの海モノで大当たりを射止めています。見ようによっては『ジョーズ』もかなりバカバカしいお笑い映画として見えないこともありませんね。
大衆にウケるツボの分かるストーリー・テラーの才覚は、認められましょう。

2代目ナサニエル(Nathaniel Benchley)はあまりぱっとしなかったものの、薮家と異なり2代目の割にはなかなかしっかり者の実力派だったようです。父親(初代)のお笑いセンスを意識したか映画評論や洒落た小説作品が今も多少残っています。『ボギー(("Humphrey Bogart" 石田善彦訳/晶文社)』『すべてを忘れて("Away from It All" 常盤新平訳/ハヤカワノヴェルズ)』や児童文学などが、現在もペーパーバックや邦訳などで入手可能なようです。


さて、初代のロバート(Robert Benchley)。
初代のこのかたはとても多才で華もあり、映画・コラム・小説などをほうぼうに書き飛ばし、現在でも多くの遺作を目にすることができます。創業者の威厳といったところでしょうか。
数多く残る作品の中「お笑い芸」カテゴリに含んでよいと思うetranger芸の一端を、私訳でご案内します。



これはフランスを旅行するアメリカ人のために特に作成されたガイドである。
昨年パリを訪れた14,000人のアメリカ人の需要と行動に基づき、アメリカ人の需要と行動に実用的に役立つことを編集目的とした。資料の一部を提供された、スクリーブ通り11番地 アメリカン・エキスプレス社に謝意を表したい。

フランス語
【1 発音】
母音
a:オン
e:オン
i:オン
o:オン
u:オン

【2 アクセント】
フランス語には3種類のアクセントがある。揚音のe、抑音のe、そして曲析のeで、これらはすべて省略される。

【3 アメリカ人に最も必要な言いまわし】
まったく!なんて安っぽい宿なんだ?:Quelle espece de dump is this, anyhow?
これをコーヒーとぬかしやがるつもりか?:Applez-vous cela coffee?
NY Timesはどこで買えるかね?:Ou est le N. Y. Times?
英語ぐらいわからんのか?:What's the matter? Don't you understand English?
こんなクソったれな国、見たことない:De tous les pays godams que j'ai vu.
おい、運ちゃん、もっとゆっくりやれ!:Hey there, chaufffeur, allez lentement!
姉さん、どこ?:Ou est Sister?
ここからルーヴルへはどう行くんですか?:Ou est Louvre?
200フランだとぉ?てめえの帽子にクソでもしやがれ:Deux cents francs? Dans votre chapeau.
兄さん、どこ?:Ou est Brother?
(パリジェンヌは美人揃いと聞いていたが)てんで美人にお目にかかれませんね:Je n'ai pas vu une belle femme jusqu'a present.

【4 アメリカ人に最も必要な言いまわし(その2)】
どこか今夜の6時までに間に合わせるクリーニング屋はないかね?:Ou est le laundry?
ここへは戦争中によくきたもんだよ。:Ici est ou nous used to come quand j'etrais oco pendant la guerre.
おや、珍しい。このビールは本物だぜ!:Say, ceci est de la biere vrai!
なんてこった!:O boy!
明日から数えあと2週間後、ようやく船で故郷へ帰れる予定です。:Deux semaines from tomorrow nous sail for home.
着いたら、まっすぐにチャイルズの店へ行き、コーヒーと冷やを飲むぞ!絶対そうしてやる!:Sogleich wir zu house sind, geh ichi zum Chileds und eine kaffee und ein glass eiswasser.
よろしい。:Tres bien.
わたしの部屋へ置いといてくれ。:Tres bien.
おやすみ!:Tres bien.
お父さん、どこ?:Ou est Papa?

【アメリカ人向きのパリ名所】
リッツのロビー

パリ広しといえども、アメリカ人の旅行者にとってこれほど楽しめる場所はない。ここなら大勢のアメリカ人に会えるからだ。ロビー隅にあるシュロの鉢植のそばに立っていれば、ほどなく知人のだれかに会い、わが愛すべき合衆国の近況を語りあえる。
アメリカン・エキスプレス社
ここも、パリに多く見られる「あの」こざかしいフランス気質から、アメリカ人旅行者が一時避難できる場所のひとつ。ここに郵便を受け取りにくるついでに、プロ野球最新二ュース、メイン州海水浴場の近況、9月に行われるポクシングのタイトル・マッチの賭け率や、8月に人気スターのだれがだれど結婚したかなどを知ることができる。ここには、最近とみにパリで多くなった、あのわけのわからないフランス語をまくしたてる連中が居ない。あなたがマサテューセッツ出身であろうとアイオワ出身であろうが、ここへくれば人間の言葉らしい言葉が聞けるはず。

【パリのうまい店】
ハートフオード・ランチ

バイロン卿通り115番地に、“ハートフォード・ランチ”が店を開いている。ここへ行けば、舌の肥えたアメリカ人も、ほとんど故国と遜色ないすばらしいフライドエッグ・サンド、ベイクト・ビーンズ、コーヒーケーキやドーナツを堪能できる。この店は、元マサテューセッツ州フォール・リバーで“ハートフォード・ランチ”を開店していたマーティン・キーフの経営で、きちんとした上手い料理を求める観光客のメッカとなっている。
ユナイテッド・ステーツ・ドラッグストア
ボンサール通りとパルテュイユ大通りの角に、すばらしいアメリカン・スタイルのドラッグストアがある。ここでは、アイス・チョコレート、クリームソーダ、コカコーラ、ピメントチーズ・サンドが注文できる。また食券を注文前に買う方式が、懐かしき故国を偲ばせるのもこの店の魅力のひとつ。

【フランスの通貨】
アメリカ人旅行者がたいてい苦労するのは、この問題だ。フランの変動を間違わぬよう、以下の換算目安を暗記しておくことをお薦めする。
曜日/フランの換算価値
 月:5セント
 火:5.1セント
 水:4.9セント
 木:栗lポンド
 金:リノリウム2と1/2%ヤード
 土:などなど
またパリにおいてアメリカ人が買物をするときの正しい手順を次に示す。
 1. フランの時価をたしかめる。
 2. 自分のほしいものを示す。
 3. 「コンビアン?(いくら?)」と、尋ねてみる。
 4. 「トロ・シェール(高ぇ!)」と、がなる。
 5. 相手の返事を理解しようと試みているジェスチャーだけはしておく。
 6. 言い値どおり支払い、英語その他の母国語で悪態をさんざ突き、店を出る。

【パリの近郊めぐり】
パリ滞在のアメリカ人の退屈しのぎにいろいろ魅惑的な小旅行は考えられる。
Aプラン:パリからアーヴル行きの列車に乗り、アーヴルから船でニューヨークへ。特急「メイン号」は、ニューヨーク(グランド・セントラル駅)を午後7:30発。翌朝にはメイン州ポートランド到着。そこで奇岩怪石の続く海岸の景観を楽しく散策する。
Bプラン:パリから列車でシェルブールへ。この港からは頻繁に西行きの船が出ている。船長に多少心づけを渡せばナンタケット島に着けてくれる。ここはかつて捕鯨船の基地だったひなびた島だ。ここなら大都会パリからわずか6日の距離にあることを忘れ、心ゆくまでムーアを散策し、海岸で泳げる。

【序数とその発音】
序数/撥音
1th. :レー・ブレミエイ
2nd. :レー・ゼッゴン
3rd. :レー・トルーアジーム
4th. :レー・カットリーム
8th. :レー・ウイーテイーム
こんな言葉はあまり使う機会がない。むりに憶えなくとも全くかまわない。

【その他のあまり用のない単語】
Vernisser:釉薬(焼物用のうわ薬)をかける。
Nuque:襟首。うなじ。
Egriser:ダイヤモンドを研磨する。
Dromer:ミシンで根をつめすぎ、肩がこる。
Rossingnol:うぐいす。合鍵。
Ganache:馬の下あご。
Serin:カナリヤ。
Pardon:ごめんなさい。
Robert Benchley, "French for Americans" ;"Of All Things", Akadine Pr., 1999 を私訳、適宜改行。)

このほかたくさんのお笑いテキストも残し、のみならず物書きだけで飽き足らなかったか当時定着していたメディアにはほとんど足を突っ込んだようです。
現在でもクロスビー&ホープの『アラスカ珍道中』内での主人公をないがしろにしストーリーをどんどん進めるナレーションや、コメディアンとして出演している『少佐と少女(しかも監督はBilly Wilderです!)』『奥様は魔女』、自作監督『いかに眠るか』などでその才能の一端に触れることができます。


そしてこの時代のアメリカ人お笑い物書きの多くがそうであったように、『ヴァニティ・フェア』『ニューヨーカー』にも寄稿していました。むしろドロシー婆ちゃんとともに、ロバート・ベンチリーもジャズ・エイジ時代の代表的な「お笑い物書き」だったと言ってよい存在でしょう。新聞・雑誌寄稿を皮切りにラジオ、テレビ、舞台それに映画など、その当時在った情報媒体にひとしきりすべてトライし、幾つかのコンテンツは興行的に成功をもおさめています。
そんなマルチな才能を披露し、また受け入れる聴衆・観客らがたくさん居た時代だったのでしょう。察するにそのころ西海岸にはまだ二足歩行の類人猿が発生していなかったのだろうと思われます。


こんにち「情報」という概念は定着し、「情報化時代」の名も自称され久しくなります。果たして供給側プレイヤーのスキルやレベルを鑑みたとき、くだんの「情報化時代」とやらは、人類の進歩なのかどうか。情報の蓄積量・処理量が増えたのは歴然とした事実ではあるけれども、情報の質の進歩殊に「書き言葉表現」の進歩は、一体どれほど歩みを進めたでしょう?それらを受ける客の質は、一体どれだけ目が肥えたというのでしょう?
そんな「どうでもよいことだけれども“笑いネタ好き”には少しばかり大事な疑問」を、ロバート爺ちゃんやドロシー婆ちゃんが遠い遠い昔に書き残した文章たちは、笑わせながら投げかけてくれます。
(2005.06.12初出)

ドロシー婆さんのウィット

ジャズ・エイジ世代のひとりに、ドロシー・パーカー(Dorothy Parker)という才女がいました。詩や古い映画のシナリオなども書いたそうなので、名前をご存知の向きもおありでしょう。とはいえ、生きていれば我が愛するマイクおじさん、それに前にちょっとだけ紹介したラッセル・ベイカーやA・バックウォルドの“母親”と同世代。いうなれば我々からみれば「おばあちゃんの若かった頃のテキスト」なのですが、これがなかなかどうして機智に富み、捨て置くにはちょっと惜しくなりましたので、私訳でご紹介しようかと思います。いやなに、たまたま古本屋で古いペーパーバック買ってみたら、面白かったので…というのが実情なのですが。

この時代にはまだ「新聞コラム」という形式が今のような形で成り立っておらず、ご紹介するテキストもコラムというよりは“ショート・ストーリー”です。ブログに載せるにはやや長文ですが、お付き合いください。




アナベルとミッジは、有閑階級よろしく悠然たる澄ました足どりでカフェを出た。もう土曜の午後で――つまり彼女らの休日は始まっていた。
彼女たちはいつものように、お菓子でランチをすませた。
いつもの二人のランチといえば、バターとマヨネーズを塗ったふわふわの白パンのサンドイッチや、アイスクリームとホイップクリームに細かな木の実入りチョコをはさんだ厚いケーキを、お腹に入れる。ときには、お世辞にも良質とはいえない油のにじむ色薄い固まったソースにつかった甘ロ肉入りパイとか、陽にさらされた軟骨のようにあまり堅くもドロドロでもない薄黄色の甘味のつまった砂糖衣の葉子も食べることもある。
ランチではほかの種類の食べ物は摂らないし、考えてもいない。

彼女らの肌はアネモネの花弁のように綺麗で、お腹も出ておらず、ウエストも若いインディアンのようにキュッとしまっている。

二人は、ミッジがアナベルの働いていた会社に速記者として入社して来たその日以来、親友になった。速記部で二年先輩のアナベルは、今では週18ドル50セントの給料を取っていたが、ミッジはまだ週16ドルだった。
二人とも自分の家族と一緒に暮らし、二人とも給料の半分を家に入れていた。
二人は机を並ぺて座り、昼食はいつも一緒、会社が終われば一緒に帰った。毎夜のように、またほとんど毎日曜日をお互いに行き来して過ごした。
二人の仲間に時折二人の青年が加わるが、このカルテットが恋に進行することもなかった。青年たちは、さっさと他の二人の青年と交代した。しかし、新しい来訪者もやっぱり前任者と同様で、ロマンスが起こることもなかった。
二人の女性は、今日のような熱気の立ちのぽる土曜の午後でも、相も変わらず一緒にのんびりと過ごす。こんなに頻繁に使用しても、二人の友情の絆が擦り切れる様子もない。
二人はよく似ていた。似ているといっても顔つきではなく、身体つきや、動作、スタイルといった点で。アナベルとミッジは、若い職業婦人ならばしない方がいい恰好を完璧に装っていた。唇は艶やかに赤く、爪にはマニキュア、まつ毛を黒くし、髪の毛を明るく染め、香水を匂わせる。薄く明るい色のドレスを胸と足を目立たせるように着て、ストラップを小意気にひっかけた腫の高い軽い靴を履く。
二人は人眼を惹き、つまりは、安っぽいものの、チャーミングだ。

今、五番街でスカートを暑い風にはためかせる二人は、あからさまに注目を集める。
新聞スタンドのあたりになんとなく集まる男たちから、囁きや、感嘆の声、最上の贈り物である口笛さえも吹かれる。
アナベルとミッジは、歩調を早めようともせず平然と歩を進ませる。ツンとして、まわりを気にせずに、優雅な足取りで歩いてゆく。

いつも二人は、昼休みには五番街まで散歩に出かけた。
そこは二人の好きなゲームの恰好なグラウンドだったから。
ゲームは、実際にはどこででもやれるのだが、大きなショップのウインドウが二人の競技者にとっていいフォームをさせてくれた。
アナベルがゲームを作り出した。
いや、古い型のものを彼女が改良したといったほうがいい。
ゲームの基本は古い遊びの“もし100万ドルを持っていたらどうする?”というやつと同じものだ。しかしアナベルは、それに新しいルールをつけ加え、削り、とがらせ、厳格にした。どんなゲームでも、むずかしければ、それだけ面白味が加わるというもの。
アナベルの改良したゲームはこうだ。
誰かが死んで、100万ドルをまるまるあなたに遺したとする、しかし、この遺贈には条件がついている、遺言状に、お金の全部をあなた自身のためだけに使わなければならないと規定されてしまっている――ここにゲームのヤマがある。ゲーム最中に、ついうっかり、例えば家族に新しいアパートを借りる支出をあげてしまえば失格で、相手に番を廻さなければいけない。多くの人が――相当のやり手でも――そんな過ちで自分の攻撃権を失うのはありがちなことだ。勿論ゲームは真剣にやることが大切。どんな買物も注意して考え、必要ならば助言して貰ってもいい。いい加滅に遊んでしまうと、このゲームの妙味がない。
いつだったかアナベルが、同僚のシルヴィアにこのゲームを教えたことがあった。アナベルはシルヴィアにルールを説明し、先にやらせてみた。「一番先にやりたいことは何?」
シルヴィアは躊躇せず「そうね、最初にしたいことは、外に出て行って、誰かゲーリー・クーパー夫人を射殺してくれる人を雇うわ、それから…」彼女はさほどこのゲームを面白がっていないことは明らかだった。


しかしアナベルとミッジは、まるで生まれながらの仲間のようだった。ミッジは、習ってすぐに達人のようにゲームを楽しんだ。
ミッジはさらにゲームにロマンティックな香りをも加えた。
彼女の改良案とは、死んで遺産を残した変わり者は、あなたが愛していた人ではなく、おまけにあなたが知りもしない人だとしたのだ。その人は、どこかであなたを見てこう思う“あの娘はいいものをたくさん持たなくちゃいかん、わしが死んだら彼女に100万ドルを贈ってやろう”そしてその人の死は不意に苦痛を伴わないものでなくちゃいけない。この恩人は年をとっていて、いつお迎えが来てもいいという心境で、寝ている間に静かに死に、そのまま天国へ行ってしまった、というのだった。
こうした飾りをつけたことで、アナベルとミッジは平穏な心でゲームを楽しめるようにした。二人はいよいよゲームに全身全霊をうちこみだした。


二人の友情が一度だけ危機に瀕したことがあった。
それは、アナベルが、こう言ったときだけだった「100万ドル貰ったら最初にしたいことは銀狐のコートを買いたい」。その答えはあたかもミッジの口許をピシャリとたたくようなものだった。
ミッジはやっと驚きから回復すると、アナベルがそんなこと――銀狐なんて月並!――をするとは考えもしなかったと怒鳴った。
アナベルは銀狐が決して月並なものじゃないとやり返し、自分の趣味を弁護した。
ミッジは月並だといい張って、誰でもが銀狐のコートを持っているといい添えた。さらに、見下す態度で、もし自分だったら銀狐のコートを着るなんて金輪際しないだろう、と宣言した。
それから数日間というもの、二人は絶えず顔は合わせたが、会話はよそよそしくなり、口数は少なかった。そして決してゲームをやろうとはしなかった。
ある朝アナベルが会社へやって来ると、すぐミッジの席へやって来て、決心を変えたといった。100万ドルの中から決して銀狐のコートは買わないし、遺産を受けたら、すぐにミンクのコートを買う、と言った。
ミッジは、眼を輝かし徴笑した。
「そうよ、確かにそれが正しいやり方よ」
と答えた。


さて、二人は五番街を歩きながら、またゲームをし始める。
暑く、日照は強く、風が乾ききった埃を舞い上がらせ、人々はうんざりして気候の悪口を言いあうような日だ。通る人通る人はみなげんなりし元気なく歩いていたが、二人は、金持の跡継令嬢の午後のご散歩といった恰好で、背をシャンと立てる綺麗な姿勢で歩く。
もうゲームにはなれきっていて、ありきたりのやり方は必要ないので、アナベルはスッとゲームの中心にはいる。「いいこと?あなたはもう100万ドルを貰っちゃったけど、最初にしたいことは何?」
「そうね、最初に私ミンクのコートを買うわ」とミッジは答える。その答えは機械的に答えられたので、ヤマをかけた問題に暗記していた答えを言うようなものだった。
「そう」と、アナベルが言う。「私もあなたがそうするだろうと思ったわ。あでやかな艶のミンクね」しかし彼女の言葉も機械的だ。
この暑いのに、毛皮なんて、どんなに色が良くすべすべと手ざわりがよくても、考えただけでうんざりする。


二人はしばらく並んで黙って歩いていた。
ミッジの眼が一つの窓にひきつけられた。そこには、落ち着いたエレガントな淡い飾りつけにひきたてられ、可愛らしく冷ややかに宝石が輝いていた。「ううん」ミッジが言った「私、訂正するわ。第一の買物に、ミンクのコートは、よすわ。私が何をしたいかわかる?私、真珠の首飾りを買いたいわ、本物をよ」
アナベルの眼も、ミッジの視線を追った。「ふうん」と、アナベルはゆっくり言った。「悪くない考えね。私にも、判るわよ。ほかの物を何も持ってなくても、あなたに真珠は似合うと思う。」
二人は一緒にショーウインドウへ行き、顔をくっつけんばかりにして立った。そこには、たった1つだけ商品が飾られていた――ピンクのビロード製の首の形をした小さな台に巻かれる、濃いエメラルドをあしらった大粒そろいな真珠の二遠のネックレス。
「どの位、すると思う?」と、アナベルが聞いた。
「うわあ、判らない、きっと高いわよ」と、ミッジ。
「4、5000ドル位かしら?」
「もっとするわよ、エメラルドがついてるから」
「じゃ、10000ドルくらい?」
「ううん、判らないわ」
好奇心がアナベルの脇腹をこづいた。「入って行って、値段聞いてみようよ」と、アナベルが言った。
「面白いわね」とミッジ。
「あんた、先に入ってよ」
「けど、こんな店、午後は開店してないものよ」
「ところが、開いてる」と、アナベル。「今、人が出て来たし、ドアマンが戸口にいるじゃない。あんた、先に入って。」
「いいわ」と、ミッジは言った。「だけど、あなたもついて来なくちゃだめよ。」
二人は、戸をあけてくれたドアマンに冷やかに会釈し店に入った。

店内は冷房が効き静かなうえ、部屋はパネルを張った壁と柔かな絨緞を敷きつめた豪華なものだった。それでも二人は気おくれを見せないよう、軽蔑したような顔つきでいた。キチンとした服装をした痩せすぎの店員が近寄って来て、おじぎをした。店員の清潔な顔には、二人の入ってきたことに驚いている様子も別になさそうだ。「いらっしゃいませ」丁寧な口調の挨拶をお嬢様がたがお聞き届けになろうとなるまいと、店員はその調子をくずさないといった態度だった。
「こんにちは…」と、アナベルとミッジは声を揃え、こわばった口調で言った。
「何をお求めで……?」と、店員が尋ねた。
「私たち、お伺いににきただけです」と、高いところから言葉を投げつけるような調子でアナベルが答えた。
店員は、頭をさげた。
「私と、このお友達は、ここをちょうど通りかかったところなの」そして言い方を吟味するように言葉を止め「私と、この人が」と、ミッジはまたひと呼吸をおき「お店のウインドウにある、あの真珠が、どの位するか、知りたかっただけです」
「あ、左様でございますか」と店員は言った。「あの二連真珠でございますね。あれは25万ドルでございます、マダム」
「わかりました」と、ミッジが言った。
店員は頭をさげ「格別美しいネックレスでございまして。」と、彼は続けた。「ご覧になりますか?」
「いいえ、結構です」と、アナベルは言った。
「私たちは、ただ、通りかかっただけですから」と、ミッジも言った。
二人は、今までのとりすました態度をふり捨て、足早に歩き出した。今はただ退却の一手だ。店員は、急いで先に立ち回り、ドアを開ける。二人が傍を通りすぎる時、彼はおじぎをしていた。


二人はそのまま街を歩き続けるが、怒ったような色をまだ顔に浮べていた。
「ほんとに!」と、アナベルが言った。「あの品が、あんなにすると思える?」
「25万ドルねえ!」と、ミッジは答えた。「それじゃ、ちょうど100万ドルの4分の1じゃないの!」
「店の人、平気な顔だったわね」と、アナベル。
二人は歩き続けた。

ゆっくりと水がひいて行くように次第に腹立たしさも簿らいでゆく。それにつれいつもの歩調が戻って来たものの、その日の街の人々と同じようにうんざりと肩を落し足をひきずって歩いてしまうようになる。二人はお互いに肩をぶつけても気にもせず、詫びもしない。ぶつかり合っては、離れる。黙りこくり、眼はしょんぼりとしている。
突然、ミッジが気をとり直し、頭をツンと立て、はっきりと力強い声で、こう言った。
「ねえ、アナベル!」と、ミッジは続けた。「いいこと?すごいお金持ちの人がいるの。わかる?あなたはその人を知らないけど、その人はどこかであなたを見て、あなたに何かしてやりたいと思うの。そして、とても年をとってるの。ね?判る?そして、この人が眠るようにして死んで、あなたに1000万ドル遺してくれたの。ね、そこであなたは、まず第一番に、何、したい?」
Dorothy Parker "The Standerd of the life"
---Modern American Short Stories(World, 1945) より私訳。適宜改行。

「マイクス」なんて読ませない(2)

[前話はこちら]
イギリスに帰化するならば
“to naturalize”という動詞は、イギリス人があなたことをどう思っているかのはっきりした証しです。イギリス市民権が許されるまでは、あなたは未開人とさえ見なされているのです。

私はポケット・オクスフォード辞典で調べ、251ページでnatural(na' tural)という単語を見つけました。そこではこのように説明されてます……of or according to or provided by nature, physically existing, innate, instinctive, normal, not miraculous or spirltual or artificial or conventional……つまりあなたがイギリス市民権を得るまでは、イギリス人は、ただあなたは生まれつきナチュラルとなる資格に欠けるのでは?と疑っているところに注目してください。
ポケット・オクスフォード辞典によれば、(natural)という単語はもう一つの意味もあります。“Half-witted person”―つまり“間抜け”です。しかしこの意味は、今私がご案内している視点からはずれています。私とあなたの間に不信感を育てないためにも、これについては、あまり触れないことにしましょう。

あなたが別にイギリス系の素性というわけでもでなく、イギリス生まれではない事実にうんざりしていて、くわえて、奇跡を信じ因習にこだわるタイプならば、イギリス市民権取得をぜひ申請しなさい。
簡単にいうと、市民権取得には2つの可能性があるのです。つまり市民権があなたに許可されるか、されないかのどちらかです。

許された場合は、あなたは人生に対する姿勢をかなり改めるハメになります。あなたは何ごとにつけ異邦人でないふりをし、おまけに異邦人らしき物事はことごとく見くだしなさい。
たとえば、私のイギリスの知人の姿勢をまねてみるとイギリス人らしく振る舞え、よい見本となるでしょう。
彼のことをグレゴリー・ベーカー、とでも名付けておきます。
イギリス事務弁護士であるグレゴリーは次のような階級の人々を特にひどく蔑むようです。外国人、つまりアメリカ人だのフランス人だのアイルランド人だのスコットランド人にウェールズ人、ユダヤ人、それに労働者だの店員だの貧乏人どもや専門職技能のない連中、実業家、俳優、ジャーナリストも文学者も、女性も、果ては隣の休業中の事務弁護士や金に困っている事務弁護士、裕福な事務弁護士、とにかくグレゴリー以外の事務弁護士、それから社会主義者に、自由主義者、トーリー党の革新主義者などです。共産主義者に至っては、侮辱する価値さえありません。
グレゴリーは、商売っ気旺盛だと母親を見くだし、妻は素人の地方出身だからと鼻であしらい、兄は職業軍人だが近衛連隊にも騎兵にも所属せずせめて地方師団に入隊をと思ってもそれすら叶わないからと蔑みます。
かと思えば一方で、グレゴリーは7歳の息子の鼻の形が自分に似ているからと溺愛し、甘やかしています。

また、イギリスに帰化するならば、次のような習慣は覚えておくべきです。

1. 朝食にはお粥を食べることを始めなさい。
  「朝のお粥はうまいなあ」と忘れずに言いなさい。
2. 元の同国人と必ず英語で話しなさい。
  外国語(あなたの母国語も含め)はわからない振りをしなさい。外国語の知識をひけらかすことは実に反イギリス的です。
  例外として少しばかりのフランス語ならよいでしょう。ただし、とてもフランス語とは
  聞きとれないひどいなまりをつけること。
3. 蔵書を再検討してください。
  原書であろうと英訳であろうとすべて外国の作家は取り除いてください。
  ドフトエフスキの作品はイギリスの流行作家の作品と入れかえなさい。
  プルーストの作品集は摂政時代の『インテリア・デコレーション』とかなんとか
  印刷されている本と替えてください。
  パスカルの『パンセ』は、スコットランド産鮭のように毒々しいピンク色のカバーの
  『人生や思想』とかなんとかいう書物と入れ替えなければいけません。
4. 新しい同国人に話しかけるには、いつも第一人称複数を用います。
  この点については、慎重な上にも慎重にするに越したことはありません。
  私はある帰化したイギリス人を知っていました。彼は“我々、イギリス人は”という言い回しを
  再三使いながら、若者に話しかけました。若者はわが知人の話をひとしきり聞き終えると、くわ
  えたパイプを取り、やんわりとこう言ったそうです。
  「失礼。わたしはウェールズ人でしてね」
  で、踵を返すと、歩き去ってしまいましたとさ。
George Mikes "How to be an Alien"
(Prentice Hall College Div. 2000)より抜粋私訳。適宜改行。

ハンガリーで生まれ、イギリス滞在中第二次大戦が勃発、戦禍を逃れるためそのままロンドンに滞在、戦後イギリスに帰化したミケシュ。
それでもどの著作にも必ず"me-cash"と読め!と一筆プロフィール覧に書き添えたミケシュ。
イギリスでのエイリアン・ライフをさぞ満喫した半生だったのでしょう。1987年イギリスにて残念ながらミケシュは鬼籍にはいられます。ご存命のままマークス寿子の著作をもし目にされておられたら
「オトナの国なら、株式なんていう無茶苦茶なバクチに精は出さないでしょうな。
 育ちが悪い連中でない限りは。」
などと皮肉めいた薄笑いを浮かべたことでしょうに。
(ここまで2005.05.22初出)



2005/05/22 04:40 投稿者:詰めにくい
そんなに詳しいわけじゃないんですが,前に How to be poor とかいうのを読んで面白かった記憶があります。金持ちは不幸だ,貧乏人は幸せだ,気の毒な金持ちのみなさん,貧乏人になりましょうっていう本です。東欧的といえば東欧的,英国的といえば英国的な(まあどっちでもいいですが)モノゴトを斜めから見るセンスがいいですね。


2005/05/24 01:13 投稿者:Donald Mac
さすが詰めにくいさん。面白そうな臭いのする物事には鼻が利きますね。
じつはお恥ずかしながら『How to be poor』については全文に目を通したことがまだないんです。同じ土俵で語れなくて、本当にごめんなさい――おおかたお金持ちのみなさんへ、あのテこのテでそのデメリットを列挙しているのであろうとは、察せられるのですが。

出世作が『How to be an Alien』というタイトルだったばっかりに、ミケシュのその後の著作にはことごとく『How to be〜』という冠をつけられてしまっています。ちょっとamazonで調べてだけでも
How to Be a Brit
How to Be Decadent
How to Be a Guru
How to Be Poor
How to Be God
How to Be a Yank
How to Scrape Skies
How to be Inimitable
How to Unite Nations
How to be Affluent
How to be Seventy
How to Run a Stately Home
‥‥悪ガキが黒板懲罰を受けているような気になってきます。ロンドン柳の下の泥沼はかなり大きいようですね。

英語版だけでこの量です、今調べきれなかった各国語版を合わせれば、ミケシュだけでカルチャ・スクールが開校できることでしょう。トーゼン初日第一講は
 「如何にすれば作者の名をミケ“シュ”と撥音せずに読むか」
ですな。


2005/05/24 21:02 投稿者:詰めにくい
いやさすがでもなんでもなくて一冊しか読んでないのです。それも受験生のときの通信添削かなんかの問題に出ていて面白かったので,英語の勉強を兼ねて読んでみるかと買いはしたものの歯が立たず,10年以上押入れに放置していたのを30過ぎてようやく読んだという,少々みっともない読み方でした。邦訳が出ているのもはじめて知ったので早速買ってみます。
 一冊ヒットすると似たようなタイトルでシリーズ化しようというのは洋の東西を問わずあるんですね。「プロ野球を10倍楽しくみる方法」みたいに,ってこんな古い例しか思いつかないのは年のせい?

「マイクス」なんて読ませない(1)

どの国でも自国がどんな風に他国の目に映っているのかは、多少なりと関心がおありなようで。
それは、いうなれば“小市民の自意識”に他なりません。
愛しき愛しきわがニッポンにおいても例外ではございませなんだようで、昔からそのテの刊行物やら音楽には事欠きません。『菊と刀』は来日することなくあそこまで調べあげたのだからスゴいだの、『不思議の国ニッポン』シリーズがいつの間にやらなんだかえらく何巻も刊行されただの、などもおそらくvol.1がそこそこ売れたからなのでしょう。尤も言わせていただければ、フランス人なんかにフシギ呼ばわりさらたかぁないですが。


The Land Of The Rising Yenジョルジュ・ミケシュ(George Mikes)にも、日本見聞記があります。『The Land Of The Rising Yen』がそれ。
かつて邦訳も刊行され、その名も『円出づる国ニッポン』。訳者・倉谷直臣さんのこの表題のつけかたからもお察しのように、ミケシュのアロニカルな文章をよく読み込んでいらっしゃる方で、日本語版は1972年発刊。当時独特の、文体に若干生真面目でカタい感じも加味され、なかなかの妙訳書ではないかと思います。
その『円出づる国ニッポン』のレポートは、一見真面目な日本文化論風ではあります…が…


(歴代トクガワ・ショーグンの奨励した)まったく無意味な儀式が、時として思いもかけぬ複雑な事態を招くことがあった、のは事実だ。
日本の偉大な文学に、47人のサムライの話がある。18世紀の恋と冒険のロマンスだ。
ある大奥の家臣が、ライバルをはずかしめようとして、ある儀式に際し場ちがいなズボンを着用するようすすめる。サムライの受けた屈辱は、耐える限界を越えたものであった。
当然、復讐ということになる。

物語は、47人の復讐心に燃えた勇敢なサムライの、かたき討ちの過程を描いている。
この恐ろしい物語が終わるまでに、47人のすべてが死ぬ。
村々は略奪され焼き尽くされる。
数えきれないほどの人々が襲撃され、拷問を受け、虐殺される。
妻は夫の戦いの足しにと、売春宿に身売りする…などなど、すべては場ちがいなズボンに起因するのだ。
「なんとまあ、ヘンな東洋人たちよ」――と私は考えていた。
◇    ◇    ◇

(マジメ・ナ・ヒトと呼ばれる人には)もう一つ特有の義務がある。
いろんな場合に、例えばビッグボスやスモールボスが出発するときにはいつも空港あるいは駅へ行かねばならない。
毎日トーキョー駅では、20人ないし30人の大集団が、毎週決まってオーサカ行――たった3時間先――しかも次の日には帰ってくるひとりのボスへ、感動的なまでの別れを告げている光景を目にすることができるのだ。みんな深々と頭を下げ、列車のあとを数歩走って追い……涙を流すかどうかまでは個人責任に委ねられるようだが。
"The Land Of The Rising Yen" Andre Deutsch Ltd., 
訳にあたり『円出づる国ニッポン』(倉谷直臣・訳 南雲堂刊 1972)を参照、適宜改行。
ちなみにこの本の挿絵はダニエル・ザボが描いています。
邦訳版は絶版になり久しく、amazonなどでもあまりでてきません。
古本などを見つけたら、お笑いテキスト好きは要チェック!の本です


『円出づる国ニッポン』についていえば、もうひとつ、気に留め読んでいただきたい点があります。
それは、原文初版が1970年刊である、ということ。沖縄はまだアメリカ領だったし、大学という大学はアンポ・トーソーで単位取得なんかどうでもよかった、ひと世代前の日本があらわに記載されているのです。
そう。
このころミケシュに『円出づる国ニッポン』で“young men”と呼ばれている人々は、今や、年金をもらいはじめたか定年退職直前か、あるいは強欲に守銭奴と化したかあるいは日本の美徳が失われたと嘆きを垂れ流して回っているおじさんたち、それはかつて自分らがクソジジイ呼ばわりしていた立場なのです。
どうだい?「タイセー・ガワ」呼ばわりされ、世間でお荷物呼ばわりされる側に回った気分は?元ガクセー・ウンドーのレンタイ諸君を謳歌したおじさんども?ふふん。
そろそろ自分のブログで
 「じつは昔、私、こっぱずかしいことしてました。
  エラソーに世事批判なんか言えたもんじゃ、ないんです。ホントは。」
ていどの殊勝なことを書いても、もう許してもらえるお年頃になりましたよ。


ところで。
ジョルジュ・ミケシュといえば、なんといっても『How to be an Alien』。ミケシュの出世作でもあります。
ご存知のとおり英米語系の大きな書店に必ずあるHumorコーナーでは、このテの表題が山ほどありますから――ユダヤ人の母親になる方法、指だけでできるスピード暗算法……などなど、タイトルを読むだけでもバカバカしくて笑える――最初にこの表題を目にした時、素直に「エイリアンになる方法」がバカバカしくもクソ真面目に書いてある本だと思ったのは、決してワタクシだけではないはず。
 「まずはじめに、絶えずヨダレをだらだら垂らせるよう練習してください」
 「つぎに尻尾を生やしてください。最初は小さな尻尾でもかまいません。
  育てるに従い、できるだけグロテスクに育てるのがコツ」
 「ひたいをなるべく前に突き出してください。あなたがハゲならば、なお有利でしょう」
てなことが延々書いてあるんだろう、と例によって勝手に想像していました。嘘です。今、勝手につくりました。すいません。


こんな虚言はサラリと流しまして。
ミケシュのいうAlienとは“etranger(ええい、くそ、アクサンが出ねぇぞ)”、つまり「よそ者」「異邦人」のこと。むろん殺人動機を「尋問を受けた際には、太陽がまぶしかったから、と答えなさい」と勧めている内容でもありません。
"How to be an Alien"の邦訳は『異邦人のための心得』『英国人入門』などなど、なるほどの言葉選び。誤解の少ないなかなかの妙訳ですね。2005年現在では近代文芸社より1994年に発刊されている邦訳が、まだ入手可能なようです。
じつは『How to be an Alien』の初版は1946年。それでもいまだamazon.comのhumorカテゴリにロングセラーとして時折その表題を見かけることがある、じつに半世紀に渡り売れ続けている息の長い「ネタ本」です。
このテのお笑いテキストネタのお好きな向きには、すでに古典の部類にはいる書のひとつと数えてよいかもしれません。


『How to be an Alien』は、イギリスに亡命したハンガリー人・ミケシュが「イギリス人風に振舞う方法」を教えている、という体裁で、イギリス人って結構ヘンだよね、と随所で斜に構えコメントしているところがミソ。さすがに半世紀前のロンドン界隈噺のためややご当節にそぐわぬ箇所もありますが、まだまだここそこで
「あはは、確かに、イギリス人って、そうだよな」
と笑える本。私訳にて少しばかりご紹介します。

イギリスにおけるジャーナリズムと出版の自由について
【事実】
太平洋の一孤島キャラマックのブブラック族が、ちょっとした暴動を起こしましてね。
R・L・A・T・W・ティルバリー陸軍大尉指揮のもと、10名のイギリス人の一団と2名のアメリカの兵隊が島を襲撃し、217名の原住民の暴動常習者を投獄したそうです。おまけに大規模石油集積所を2箇所、ぶっ壊しました。
イギリス人の一団は1時間半ばかりちょいと上陸し、1名の負傷者も出すことなくに基地に引きあげました。
さて、この出来事がどう報道されたか?次の記事は、広く読まれている新聞社に掲載されたものです。

ザ・タイムズ
単なる一孤島急襲の意味を過大評価することは実に危険だが、過小評価するのは更に危険であるとここで明確に公言しておく必要があろう。我々が襲撃に勝利を得たことから考慮すると、原住民の防備に損害を与えることは至難技ではないことは自明の理である。
しかしながら、この決断を実行すれば原住民を当惑させ、騙討と同義になるだろう。捕虜にされた革命家の数は明らかではないが、216人を越え218名には達しない模様である。

国会にて
あなたが代議士であるとします――何ごとも不可能であるとは言えませんからね。
こんな演説も空前のことではありません。女王陛下配下の閣僚の一員から、次のような演説がなされることもあり得るのです。
「この場で、21ケ所の石油集積所に関する次のような情報を申しのべたい。
 本年上半期に大量の原油が、わが国陸軍、海軍により潰滅されました。
 しかしながら、イギリス海軍航空隊による流失を除けば、その流失量は前年度の同月の流失量の約3倍の半分の量、つまり、2年前の流失量の2/5の7倍半であり3年前の流失量の1/6の12倍の3/4にすぎないのであります。」
  (閣僚の席からあがる大歓声)
ここで代議士であるあなたは、つと立ち上がり、こんな質間をします。
「閣下。
 閣下は我が国の国民が、キャラマックが急襲されたのであり、ラガマックではない、という事実に疑間を抱き、案じておりますことを御存知ですか?
 1892年8月2日、今、私がなした演説に、加えるべきことは何もありません!」

イヴニング・スタンダード(ロンドン・デイリー)
キャラマック急襲についての最も興味をよぶ記事は、レジィ・ティルバリーがベイズウォーター伯爵家の五番目の子息であるという事実である。彼はオックスフォード・ブルーで鳴らしたクリケット選手であり、ポロも極めてうまいそうである。記者が彼の妻(レディ・クラリッセ、エラスーン卿の令嬢)にクラリッジズで今日インタビューした時、彼女は青いスーツに黄色の羽根つきの黒いボンネット姿であった。彼女はこう述べた。
「レジィはいつでも実戦にはひどく関心がありましたわ」それからこう言い添えた。「主人は戦争にかけては機知にとんでいますでしょう?」

イギリスでジャーナリズムの自由を謳歌するならば、あなたはザ・タイムズの編集者に手紙を書くことだってできるんです。そう、こんな風に――

  貴兄、キャラマック島急襲によせて、キャラマック島と申せば
  イギリスのすぐれた詩人ジョン・フラットが
  1693年『ザ・ゴット』という有名な詩を書いた、太平洋に浮かぶ一孤島であることに
  私は少なからず関心がある故に、申しのべたい……。

手紙を投函したその翌日、あなたは編集部からのこんな返事を読んでいるかもしれません。

  拝啓――
  氏から、ジョン・フラットの詩『ザ・ゴッド』に注意を向けるようにとの
  御手紙を頂戴して、心より感謝する次第です。しかしながら、私の見解では、
  イギリス国民の大多数の読者と報道員は共に、世に流布されている困惑に値する
  多大な誤認をしておられると思われ、この機会を利用し訂正させて頂きたい。
  貴兄御指摘の『ザ・ゴッド』はジョン・フラットが1693年に書き始めたと言え
  書き終えたのは1694年1月初句であったとだけ訂正させて頂きたい。
      敬具

もしあなたがアメリカ紙、ザ・オクラホマ・サンのロンドン特派員なら、『ヤンキーらが太平洋を制覇した』とだけ打電するだけ。
そう。ただ、それだけ。
(つづく)

ドナルド・マックの デイヴ・バリーを笑う

デイヴ・バリーを「おバカコラム」呼ばわりする向きがあるようです。
デイヴとて、浅薄な毎日をのんべんだらりとやり過ごすお前らクズどもに、バカ呼ばわりされたかぁないだろう、と思うんでございますが。


わが国でデイヴ・バリーといえば『デイヴ・バリー 日本を笑う(Dave Barry Does Japan)』なんでありまして、007といえば『二度死ぬ』、SFといえば『チバシティ』…ま、そういう島なんありますよ、オラが国は。イナカモノ・コンプレックスに根づく「オラが村びいき」が見え隠れするんでございます。


今現在もチャキチャキの第一線ネタ書きであるデイヴ氏。辺境探検の急先鋒コラムニストとして、日本群島風土記ていどではもはや編集者が納得してくれなくなったか、昨今は50歳の老体に鞭うち、火星や金星にまでおでかけのご様子。ビッグバンや黄泉の世界ルポを著す日も、そう遠くはないでしょう。
それに比べればまだまだ可愛いモンだったころの辺境観光シリーズ『日本を笑う』の中には「酢豆腐」を見に行くくだりがあり、フロリダのヤンキー・デイヴの感想は
  物知りの男が傷んだトーフを食べる?
  ただそれだけのジョークを聞くために、20分も辛抱強く待っているなんて!
…なるほど。ごもっとも。
ご当節、脳内にカビのはびこる文化人類学者以外使わないでしょうが、かつて辺境探検とは
  シリアスな語り口で未開社会を通し
  近代文明への警鐘をほのめかすのがトーゼンの展開
でした。21世紀の秘境は、ただの茶化すネタに成り下がりましたとさ。


そんな「デイヴの秘境探検を笑う」シリーズを少し離れ、ここでは『デイヴ・バリーのアメリカを笑う(Dave Barry Slept Here)』をご紹介します。
本著のネタが面白いのは勿論ながら、『デイヴ・バリーのアメリカを笑う』は、永井淳さんの翻訳である処も高ポイント。
他のデイブ・バリーの多くは東江一紀さんが翻訳を手がけられ、まあ、それはそれで、えー、よくこなれた翻訳をされていらっしゃるんでございまして、「訳者に恵まれ」なんぞの評価も日本語圏内では高いらしいんですが、あー、そのお、なんつーか、悪ノリが過ぎるトコがあるんでございまして…あ、いやなに、いいお仕事されてるんですよ、ええ。
ただ、あの“東江版訳者あとがき”を割愛する勇気があれば、もっといい仕事になったと思う。


筆のすべりついでに罵らせていただくと、アメリカン・ユーモア・コラムのあとがきは、なぜ揃いも揃ってあれほど的をはずした文章ばかりを掲載するのでしょうか?なにか出版業界上のしきたりやジンクスがあるのか?博識な諸兄に教えを請いたい。
ちなみにワタクシの知る中でザ・ワースト・オブ・あとがきは、この『デイヴ・バリーの日本を笑う』のほか
  アート・バックウォルド傑作選あとがき(池内紀/筆 文藝春秋刊)
  マイク・ロイコ傑作選あとがき(枝川公一/筆 河出書房新社 刊)
です。いずれ劣らぬひどいもので、これから亭主に毒でも盛ろうかという間際や、わが子を虐待し半死半生の目に遭わせてやろうと画策する際の踏ん切りに、じつに効率よく短時間で不愉快さを増長してくれる実用的な文章です。


『アメリカを笑う』原文『Dave Barry Slept Here』の一部は、左の表紙クリックでご覧いただけます。
全編こんな調子でして、つまりはアメリカ史を下敷にネタを挿し込んだというだけの本なのでございます。年号まではなんとか調べたものの、日付に至っては面倒くさいからみな息子の誕生日・10月8日に統一しちまえ!てな調子。おかげで、こんなアバウトな時空間が、ほうぼうに登場します。

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しかし、チャールズ・A・リンドバーグという名を持つただの長身の若いアメリカ人飛行士の業績以上に、狂乱の20年代の精神を象徴する出来事はなかった。
飛行機がほとんど離陸できないほど空港を過密化させた高度の安全策のおかげで、空の旅がきわめて安全になった今日の商業航空の時代に生きているわれわれには、リンドバーグが彼の単発機ハイディ=ホー4世の狭いコクピットに乗り込み、“コーパートーンを塗れば ヤケドせず きれいに日焼けが!”と書かれた横断幕を引きながら、ロング・アイランドのローズベルト飛行場上空の、10月8日の夜明け前の薄明に飛び立つのに、どれほどの勇気を必要としたか想像もつかないだろう。

それは楽な飛行ではなかった。乱気流のために飲み物のサービスはなく、おまけに映画はリンドバーグがすでに見てしまった映画だった(たぶん『ポセイドン・アドベンチャー』)。
にもかかわらず彼は辛抱し、33時間後の10月8日午後にパリ近郊の飛行場に到着し、時速140マイル以上のスピードでフランス人の群集の中へ突っ込んで行った。
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かくてコロンブスは集められるかぎりの大胆不敵な船乗りたちのグループを集めた。この連中がどれほど大胆不敵だったかといえば、もしも当時電球が発明されていたとしたら、それをソケットにはめこむのに少なくとも彼ら3人を必要としただろうといえば、われわれのいわんとするところがわかっていただけるだろう。
1492年10月8日、彼らは3隻の小さな船、ニンジャ号とピーニャ・コラーダ号とハイディ=ホー3世号に分乗して、荒れ狂う大西洋に船出した。さいわいコロンブスは詳細な航海日誌をつけていたので、つぎに掲げる抜粋から、彼らの航海がいかに長期にわたる過酷なものであったかをある程度までうかがい知ることができる。

  10月8日――やれやれ、なんて長い航海なんだ!おまけにひどく骨が折れる!

しかし、何週間も嵐に翻弄された末、コロンブスと彼の部下が二度とふたたび陸地を見ることはあるまいと思われたとき、ついに見張りの興奮した叫び声が聞こえた。
「おーい!」彼は叫んだ。「おれたちは帆を揚げるのを忘れたぞ!」
それを聞くと一同腹を抱えて笑い、やがていまいましい帆を揚げた。それから数時間たった10月8日に、彼らはひとつの島に到着し、コロンブスと手近の通訳が上陸して、島の酋長とつぎのような歴史的会話をかわした。
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全編これハナくそジョーク("booger joke"デイヴ氏自身の命名)の中、ワタクシが一番ウケた一節をば。
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1948年に、民主党は彼は負けるだろうのスローガンのもとにトルーマン大統領を指名する以外に選択の余地がなかった。politician(政治屋)も、press(新聞屋)も、pollsters(選挙予想屋)も、piccolo player(ピッコロ吹き屋)も、Peter Piper(ピーター・パイパー屋)も、ぴとりぽこらずそう感じていた。
一方共和党は自信満々で、唯一の業績が十進分類法の発明という人物、トマス・デューイを指名したほど余裕があった。
トルーマンは根気強く全国を遊説してまわったが、彼の運動は絶望的に見えた。
デューイの勝利はもはや動かぬと見て、投票日の夜、≪シカゴ・トリビューン≫は第1面に有名な見出し、デューイ、トルーマンを破るを打ったほどだった。事実デューイはトルーマンを破ったのだが、トルーマンがただちに原爆を落とすと脅迫したので、人々はみなハハハ、冗談だよといって、喧嘩っぱやい元男子用雑貨店主にもう1期大統領をやらせるという賢明な選択をした。

(いずれもデイヴ・バリーのアメリカを笑う 永井淳 訳 集英社 1995 を適宜抜粋改行、一部改訳)

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ちかごろはブログなんかもやっておられ、なかなかの人気を博しておられます。この方面のお好きな向きは、ご一読を。
http://weblog.herald.com/column/davebarry/
2004.09.24初出

マイクおじさんのクリスマス

毎年、年の瀬も迫り街中がクリスマス・デコレーションで彩られる頃になると、決まって思い出すマイクおじさんの話が幾つかあります。
マイクおじさんはクリスマス・シーズンの頃になると決まってとびきりサエた文章を書いていて、それらは日本版のみの編集で『ロイコのクリスマス』という冊子として刊行されたこともあります。

今回はクリスマス前になると慌てて慈善事業に努めはじめる小市民のスケッチを、ひとつ紹介します。



ミシガンアヴェニューにあるレストランオーナーが、クリスマスになると頻繁に起きる問題で、私へ電話をかけてきた。
オーナーは、恵まれない子供たち100人のために自レストランでパーティを開くことにしているのだが、なぜか予定の半分しか頭数を確保できない、と事情を説明した。パーティをわずか2日後にひかえ、彼はいま血眼で残り50人の恵まれない子供たちを探している。
「どこへ行けばいるでしょうね」と彼は私に尋ねる。
孤児院を当たってみたかどうかたずねると、まだだ、というので、私はある孤児院の名前を彼に教えた。
数分後、ふたたびオーナーから電話がかかってきた。
「残念ながら、全員すでに予定が入っていた」と彼は報告してくれた。そうなるとあとは、ほかの孤児院や社会福祉施設を手あたりしだい当たってみてはどうか、と助言するぐらいしか、私にはできなかった。
だが駄目で元々と覚悟しておくよう、と私は彼に忠告した。今となっては遅きに失した感は否めまい。クリスマス前の最後の週ともなれば、恵まれない子供たち、とくに孤児たちはみなきれいに出払う。


問題は、一年のこの時期にだけ孤児の需要が急増することなのだ。
誰もが同じこの時期に最低ひとりの孤児を必要とする。その結果クリスマス直前の孤児院へ、クリスマス休暇やクリスマスの晩餐の席に恵まれない子供を必要とする個人需要者だのパーティその他催しに大量の子供を必要とする教会や友愛組織だのから電話が殺到する。
そして多くの人間が一様に落胆させられることになる。
たしかに、クリスマス直前に“なにか人のためになることをしたい”という衝動に駆られているのに、それができないときほど欲求不満に陥るのは、大いに同情する。


そういえば去年もクリスマス・イヴの午後になってから、ひどく憤慨した様子で若い女性から電話がかかってきた。
なんでも、数人の友人と寄付するため古着やオモチャを集めてまわったものの結局肝心の寄付場所がひとつも見つからない、という。社会福祉施設にも何か所か電話をかけてみたが、その日はどこも休みだったらしい。
電話をかけてきた女性がどんなに落胆しているかは先刻承知だし、私はできる限り力になろうと、クリスマスが終わり施設が業務を再開するのを待ってみてはどうか、と鉾先を変えてみた。衣類やオモチャなら、クリスマスが終わってからも必要だろうから、と。
「でも、そのときはもうクリスマスは終わってるじゃない」とその女性はいった。「それじゃ意味がないでしょ」
言いたいことはよくわかる。ラジオがクリスマス・ソングを流し、街中がクリスマスツリーの灯で飾られているうちに恵まれない人びとを助けられれば、それに越したことはない。はるかに大きな満足感を得ることができる。早すぎても、遅すぎてもだめなのだ。
8月にエッグノッグを飲まないように、真夏のなんの変哲もない週末に孤児を招いたりはしない。そこで需要と供給の問題が生ずる。クリスマスが終われば、その瞬間から、恵まれない人間のほうはピンからキリまで選りどりみどりで揃う。いっぽうその時、大多数の人々はすでに大晦日の計画で頭がいっぱい。しかも大晦日には別に孤児はいらない。


そこで、恵まれない人びとに手を差しのべようと思ったら、計画を早めに立てるようにする。大晦日の日の予約と同じで、こちらのほうもぐずぐずしていては遅れをとってしまうのだ。
少なくとも計画は感謝祭のころから立てはじめるべきである。できれば、より前からが望ましい。
クリスマス用の立派な行為も、計画を早めに立てれば、選択幅はかなり広がる。
たとえば、同じ孤児でも、男の子より女の子のほうがいいとか、性別以外にも大きさ、肌の色といったことに関しても好みがある人がいるかもしれない。だが、クリスマス休暇が迫ってきてからでは、そんな希望も望みどおりにかなえられる保証は皆無に等しい。


しかし、いざ恵みを施すのに必要な人間を探すときにも、不便なことがいろいろとある。
たとえば買物をするときのように物色してまわる便利な方法がない。
電話帳では恵まれない子供たちのいる場所がリストアップされていないし、孤児院や小児科医院あるいは老人ホームなどに勝手にずかずかと入り品定めしてまわるわけにもいかない。
新聞は、寒さや飢えに苦しむ家族や長屋住いの孤独な老婆の話を探しだしてくることでそれなりに健闘しているとはいえ、それだけではとても需要に追いついていない。


おそらくいま必要とされるのは、クリスマス専用カタログだろう。外見はシアーズやウォードが出している商品カタログと同じものなのだが、なかは各種の恵まれない人びとが掲載されているカタログである。
断言はしかねるものの、カタログに目を通したあとやっぱり子供よりも年老いた寡婦のほうがよさそうだ、などと考える人間も出てくるのではないか。
それにカタログで場所さえわかれば、同じように食料品を入れた箱を置いてくるときでも、教会の地下室の配給センターに置くよりは直接恵まれない一家の戸口に置きたいと思う人の方が多いだろう。そのほうが、持っていった時にじかに感謝の気持を受けることができるから。
そんなカタログがあれば、立派な行ないをするとき土壇場になって慌てふためくこともなく、ゆっくりと落ち着き計画を立てられる。


なにより一番いいのは、誰も落胆せずに済むことだ。
クリスマスは年に一度しかやってこない。もろびとこぞりて立派な行いをするチャンスに恵まれてしかるべきだ。
なにしろ“また今度の機会に”となると、また1年待たなければならない。
(Mike Royko "Sez Who? Sez Me", Warner Books Inc; 1989
より私訳。適宜改行。)

2005.11.26初出

ウディ・アレンの誉めかた

ウディ・アレン(Woody Allen)ほど誉められるコメディアンは、そういない。
いわく「毎年アカデミーやオスカーにノミネートされながら、一度も出席したことがない」
一度も出席していないという点では、ワタクシとて満たしております。ワタクシなんぞ、ノミネートすらされたこともない分、よりレコードとしては偉大じゃないか。
いわく「都会人の神経質な心理をシャレた表現で映しだしている」
そんなものが観たいのならば、街なかの精神科外来にゆけば、よりたくさんで生々しい神経質なクリエイターの自己表現を間近に見ることができます。


さてここで、わがマイクおじさんにご登場いただきます。
マイクおじさんの見識については平静常々一目おくワタクシであります。幸いマイクおじさんは、ウディ・アレンについても少々書き残してくれています。




その日は朝からの連続ハードワークで、気のめいるような映画は絶対に見たくなかった。
となれば、破綻した男女関係だのティーンエイジャーの殺人鬼だの現代フェミニストの欲求不満だのといった、近ごろ人気の映画のおおかたは必然的にはずれてしまう。
結局シカゴの映画評論家たちも絶賛しているウディ・アレンの新作『ブロードウェイのダニーローズ』が、その日の気分に最もふさわしい映画に思えた。

噂たがわず、映画は面白かった。
左隣に座った男は上映時間のほとんどを腹をかかえ笑い転げていたし、右隣の女性はひとつのギャグであまりに長く笑いつづけすぎて、次のジョークを3つ聞き逃してしまった。前の席の男は、あるジョークを聞いてのけぞるように飛び上がって笑いはじめ、ポップコーンをあらかた撒き散らしていた。
もちろん映画が終わったときも客の大半はまだ歯を見せ笑い、映画館を出るときにも映画のセリフを思い出してはまた笑っていた。

その後何日かは、私も友人をつかまえては『ブロードウェイのダニーローズ』を見た話をしたが、映画館へ足を運んだ者どおしで「あの映画は面白い」とやはり意気投合した。

だが、なかにひとりだけ「あんまりいい映画じゃないって聞いてるけどな」と首をかしげるやつがいた。
以前ニューヨークに住んでいた男だ。
「誰がそんなこと、言ってるんだ?」私が尋ねると、彼は数分後『ニューヨーカー』誌最新号を手に戻ってきた。
あの雑誌だ。凡人がとても及ばないぐらい洗練された“ニューヨーカー”とやらと、垢抜けた“ニューヨーカー”でありたいと願うイナカ者ご用達の、例のアレだ。
彼はどことなくすました口調で「この、ポーリン・ケールの評を、読んでごらん」と――同誌のその分野では最も深い洞察力を備えていると評判の映画評論家なのだが――言ってよこした。
間違いなく彼女は深い洞察力を備えている、と私も思う。これまでにも何度か彼女の書いたものを読んだが、ほとんど理解できたためしがない。

今回に限っていえば、曲がりなりにだが、私にも彼女の言わんとすることが理解できたような気がする。どうやら彼女はアレンの新作が気に入らないらしく、作品は「鼻につく映画だ」との酷評だ。
しかも彼女の気に入らない理由とは、驚いたことに「ウディ・アレンが観客を笑わせようとしているから」。

ケール自身の文を引用させてもらう。
「1970年代、ポスト・フロイト派の最初のコメディアンとして映画界にデビューしたウディ・アレンは、自らの不安心理を彼一流の道化に昇華し表現してみせた。
彼は自分自身の性的不安の精神状態をユーモアの基礎として導入した最初の表現者であり、人間の心の変遷をコメディに仕立て上げる。あらゆる人々に向かい語りかけるように、あるいはジョークを発するかのように、映し出した。
鑑賞者は、己のもつ防衛本能や劣等感あるいは自己撞着ともいえる野心を直接的に映し出す神経症的傾向のウディ・アレン映画の主人公に、同病の輩として親近感を得た。
だが文化的状況が激変した今日、最早ウディ・アレンはわれわれの内察態度について、なにも啓蒙してはくれない。
彼とわれわれの間に今や壁ができてしまっている。とくにこの『ブロード・ウェイのダニーローズ』では…。
彼は他のコメディの作り手同様、壁の向こう側に立ち、その壁をドンドンと叩いては、われわれを笑わそうとしているのだ。」

ニューヨーカーの気難しさがおわかりいただけるだろうか?
ここに、観客を笑わそうと映画を作る、ひとりのコメディアンがいる。
人を笑わせるのが、コメディアンの稼業だ。
コメディアンは、人を笑わせられないならコンビーフをスライスする仕事にすぐ就き、日々の生活の糧をとにかく間に合わせねばならない。
だがそんな考えはニューヨーカーに通用しない。ニューヨーカーの視点では、ウディ・アレンは「最早われわれの内察の態度についてなにも啓蒙してくれない」から、堕落したことになっている。

ということは、彼らニューヨーカーはずっと自分自身について、不安神経症ぎみのコメディアンに教えてもらっていたのか。とすれば、ニューヨーカーという人種は、並外れて風変わりな人間の集まりである。私自身について、会ったこともないウディ・アレンがどうやって教えてくれるんだ。

これまで長年彼の映画を見つづけているが、私自身について彼から学ぼうなど考えたことは一度とてなかった。自分について感じたいなら自分自身に問いかけるし、ひょっとして夜遅ければバーテンダーに尋ねることもあるかもしれない。

正直、アレンの映画を見て、彼の神経症的な問題やかかえる劣等感に、同病者として親近感を覚えることなど一度もなかった。アレンは馬鹿にされることをシャレのめしていると思っていたので。
だってそうじゃないか。
ダイアン・キートンの実生活の恋人が劣等感を抱くなど、普通ちょっと考えにくい。
(Like I Was Sayin'... 1985 を意訳)




ウディ・アレンをとりまく言説で、これ以上的を射た物言いに、ワタクシはお眼にかかったことがありません。ウディ・アレン自身が生粋のニューヨーカーを自負しているのを知っていれば、なお楽しめるというもの。
「寅さんのどこが人情深い?間抜けなテキ屋じゃないか」
育ちの悪い下町のおっさんのしゃべりと同じ、足が地についた、だがシャレっ気も飾りっ気も身もフタもない語り口が、ここにはあります。


そう。
ボクらのウディ・アレンで――往年のマガジンハウスに敬意を表し敢えて「ボクらの」と――誉めるべきは、「都会的会話」だの「神経質で繊細」だの、そういうトコじゃあ、ないのです。
めくらどもめ。
2004.07.31初出

マイク・ロイコも もういない

マイク・ロイコが亡くなり、もう何年が過ぎたでしょう。
…7年です。知っていながら書き出し用に“問いかけ体”風にしてみました。
はじめから時代遅れの年寄りの語り口で、淡々と笑わせてくれたマイクおじさん。わたしはあなたのように年をとりたかった。もう実現できないほど人生の残り時間は使ってしまいましたが。


マイク・ロイコ(Mike Royko)はアメリカでは(特にシカゴでは!)有名な新聞コラムニストですが、日本では一部のコラム好きを除きあまり知られることなく他界されました。


平明でヒューモアに溢れた文章が楽しく、「週遅れ」のトリビューン日曜版に――当時ボーダレスだなんだと喧騒かまびすしい世相でしたが、実情はそんなモンでした、先週の新聞なんぞコラムのほか何の役にたつ箇所があるというのでしょう?――必ず目をとおしていたものです。


ロイコにしてみれば日本に読者が居ようが居まいがどうでもよかったことでしょうし、仮に日本に読者が居ると知ったところで
「日本でもわたしのコラムが読めるそうだ。
 日本人にシカゴ・トリビューンを読む時間の余裕があったとは驚きだ。
 いまや日本人がシカゴの市議会収賄ゴシップに関心を示す時代なのである。」
ほどのネタとして、どこかに挿入されるていどでしょう。


このページを読んだかたでマイクおじさんをしらないかたのために、少しだけサワリをば。いずれまた引用することもあるやもしれませんが。私家版意訳です。
 いまやたくさんの人が、だれかしらの名前をジーンズにつけることがきわめて重要なことだと考えている。
 わざわざ犠牲をはらい、ズボンの尻に目をやった人すべてに、カルヴァン・クラインやグロリア・ヴァンダービルド、ダイアン・フォン・ファーステンバーグ、ビル・プラス、ボンジュール、あるいはサスーンだかなんだかいう男のジーンズを瞬時に知らしめたいと思っているのだ。

 これまでわたしは、尻に垢の他人の名のついたズボンをはいたことは一度もない。そういう尻のたしなみ教育は教わらなかったからだ。表になにかラベルがついているものを身につけたという記憶はほとんどないのだ――靴を除けば。その靴は一時期「ドクター・ショールの靴」という名で流行したもので、ゴム底に「加硫加工処理・防油性」と押印してあった。

 そうそう、そうだった。飲み屋の店名入りのソフトボール・ユニフォームを着たことはあった。だがこれはファッションに妥協したというよりも、このユニフォーム代を出してくれたうえに、常日頃もちょいちょい客に酒を振舞ってくれる飲み屋のおやじの顔を立てた服であることを、言い添えておいたほうがよいだろう。

 だがデザイナージーンズの場合、尻にカルヴァン・クラインの名前をつけるだけのことに、人びとは嬉々として割増料金を払うのだ。言い方を代えれば、わざわざ広告掲載料を支払い、カルヴァン・クラインやサスーンといった奇人の宣伝をしている。しかも自分の尻を媒体に使ってまでも、だ。

 なぜ尻にデザイナー名なんかつけたがるのか。あるとき私は若い女性に尋ねたことがある。彼女の返事はこうだ。
「たとえばリーヴァイス・シックのジーンズだって、いいことはいいの。
 値段だってずっと安いし、デザインだって申し分ないし。
 でも、パーティで誰かが私の後ろを見たとき“リーバイス・シック”って書いてあるのに気づいたら、やっぱり恥ずかしいもん。」
そりゃ、そうだろう。尻にリーヴァイス・シックなんて書いてあったら、私だって恥ずかしい。
(Sez Who? Sez Me 1982)


流行をクサすなら、これぐらいのネタを放り込んだ文章をしたためたいものです。


マイクおじさんの本は、数冊のダイジェスト版ならまだ入手可能なようです。よろしければ。
Sez Who? Sez Me
For the Love of Mike: More of the Best of Mike Royko
One More Time: The Best of Mike Royko
Boss: Richard J. Daley of Chicago
Like I Was Sayin'...
Dr. Kookie, You're Right!
2004.06.26初出

おっさんおばはん脳内ダンス・タイム

チューン内でご紹介の曲・収録アルバム(クリックするとお求め頂けるものもあります)
BoystownGang Cheryl Lynn James Brown KC Aretha Franklin
Chic Lipps, Inc Carl Carlton Sheila E. Eurythmics
Kylie Minogue Miami Sound Machine Swing Out Sister

大きな箱で演りたがらない理由(4)

(前話はこちら)
さて。
2つの楽しい追悼会――楽しい追悼、というのもけったいな言い方ではあります――を比べると、私は「文枝追悼会」へ軍配をあげたい。
米朝師匠は、平静よりホールのような大きな場所での落語を、あまり好まないかただそうです。ホールで演る時もできる限りマイクでの音量を下げるよう音響係のかたへご注文されるとか。マクラを振るひとこと目の音量が大きいと、わざと少し間をおきボソボソとした口調で
「マイクの音はなるべく小さく、な。
そない大きくせなんでも、お客さんには、きちんと聞こえるさかい。
最小限でよろし。
ひとつ、お願いしときます‥‥。」

と釘を刺してからマクラをはじめる。それには、できるだけ大きな声で活舌巧みに話せるように、との意味もありましょうが、それ以外のニュアンスも含んでの「落語は大きなホールでやるもんやない」という言葉でしょう。なるほど先の文枝追善会で、その理由を少し感じ取れたような気がします。
お客さんの間近で噺し、目の前のお客さんひとりひとりの笑い顔や退屈気な表情が全部見える。ひとりふたりの拍手している姿も、演者からみな見える。それらの丁々発止あってこそ、演者にとっても聴者にとっても、とても至福なひとときの空間を作り出せるのです。「寄席というものは爾来そういう催事や、そのほうが面白い催事なんや」という米朝師匠なりの体験から醸し出された定義なのでしょう。
2005.06.19初出


2005/06/26 13:14 投稿者:浪蔵
読ませてもらいました
なかなか 良かったです 歌舞伎座の追善が平日で
行けなかったのですが 雰囲気が伝わって来ました

あたくしが枝雀さんを最後に見たのは
高座に上がれなくなる 少し前の
上野 鈴本恒例の年末独演会でした

その時は 出待ちしていたんですけれど
あまりにも へとへと と言うのか
おじいちゃんに 見えたので 声もかけられず
お弟子さんに 抱えられるように池之端 方面へ消えていく
姿を見送りました...

今にして思えば それでも 声かけて握手してもらえば
よかったなぁと想うことが あります

大きな箱で演りたがらない理由(3)

(前話はこちら)
かたや「高津宮くろもん寄席 桂文枝 追悼特集」は5月29日に寄せさせていただきました。
こちらは文枝一門恒例の演場所・高津神社での「定例くろもん寄席」に“桂文枝追悼”の冠を載せたかたちでの開催です。
客側も定席「くろもん寄席」というのが、そもそも大規模な興業ではなくこじんまりした地域寄席であることははわかっています。大半の客は「くろもん寄席」に数度は顔を出したことのある地域周辺の人々で、枝雀追善会のように大掛かりなエンターテイメント装置やゲスト出演なども期待せず集まってきています。それでもさほど広くない高津会館に100人近くが集まる、いつもにない満員御礼状態の追悼の会となりました。
紋付羽織で一門が正座し勢揃いしてご挨拶、などの仰々しい座もなく、いつものように前座以外はTシャツにジーンズという普段着で舞台袖へ並び
「えー、たくさんのお運び、ほんまに、ありがとうございます。
落語会に“文枝”の名前をつけただけで、こんなにぎょうさん、おいでいただけるんですなあ。」
「ほんまですなあ。ありがたいこっちゃ。師匠のご威光ゆーやっちゃねえ。
この前なんか13人しか来てくれなんだで。(場内、笑)
こんなに来てくれはるんやったら、毎回“文枝追悼”と刷り込んどいといたら、ええんとちゃうか?」

口上のくちから、場内は爆笑・拍手喝采。
「次に、開催するときは“三枝追善”‥‥」
「こらこら!(場内、笑)まだ生きたぁるがな!あんた、思うてても、そないなこと言うたら、あかん。」
「なんや。お前も、願うとるんやないか‥‥(場内、大爆笑)」

文枝一門というと、出世頭が桂三枝、桂文珍ということもあり、関西ローカル人気でも桂小枝という、新作落語で名を馳せたりテレビでのタレントとして有名になった弟子が多いため、「文枝一門はキワモノが多い」イメージがなんとなくあるのも事実。実際ワタシもこの追悼会に三枝や文珍が出演するのであれば、恐らく行かなかったでしょう。
「わたしら弱輩の演るこういう寄席が新聞に載せてもらえるコトなんて、滅多にないんですが。」
「はいはい、そうですねん。(新聞の切り抜きを広げ)、ほら、天下の朝日新聞にこない大きく、載せていただきましてん。」
「“師匠である文枝の追悼会を開催。実力派4人が生前の師匠を偲び‥‥”うわあ!実力派やて!
わしら、実力派やってんや!(場内、笑)」
「ちゃうねん、ちゃうねん。
この記事書かはった記者の人、あんまり落語を知らはらへん人やったらしわ。
んで、そない有名でもないわたしら弟子たちの会やし、書くのに困らはって、そない書いたらしい。」
  (場内、笑)

文枝追悼会、その名にふさわしく、演者一同いつもの自分の得意ネタではなく、敢えて故人・文枝師匠の十八番ばかりをご披露。つく枝『宿替え』、坊枝『天王寺詣り』、枝女太『悋気の独楽』、文也『舟弁慶』。
『天王寺詣り』や『舟弁慶』のような大ネタをちょいちょい噛みながらも、一生懸命演じます。
各々マクラにも
「(前の演者がいる上座を指さし)あやつ、〜のところ、こない言いよりましたやろ。
ほんまは、違いますねん、あれ。
師匠やったら、こないな風に‥‥」

とか
「この高津さんでは、師匠もほんまに、よう演らせてもらえてまして。ええ。
ここにこう、座らせてもろてても、あん時の師匠、思い出しますわ‥‥。(場内拍手)」
「このネタは先代(四代目)師匠から“直接つけてもろたネタやさかい”言うて、
たいへん大事にしていたネタでして‥‥。
ワタクシが演じるのもおこがましいネタなんでございますが、演らさせてもらいます。
一席、おつきあいのほどを。」

など、各所各所に故人を偲ぶしゃべりを入れつつ「正統古典の上方落語」ばかりの演し物。先般他界されたばかり、という思い入れの深さもありましょう、こじんまりとした会ながら、とても情の深い良い寄席を見せていただきました。
お茶子も坊枝の娘さん(多分7〜8歳ぐらいかな?)が、座布団返しや見台の出し入れ、名札返しをおぼつかない仕草でこなします。本当に「身内で偲ぶ手作りの会」という感じでした。
演者は口にこそせなんだが
「師匠ほどの芸達者になるには、まだまだ修行せなあきませんが
門下一同、文枝師匠の芸をこれからもきっちりと伝えてまいります。
どうぞよろしくご贔屓願います!」

という心意気のよく伝わる気持ちの良い会でした。(つづく)
2005.06.19初出

大きな箱で演りたがらない理由(2)

(前話はこちら)
桂枝雀追善会のほうで私が寄せていただいたのは「2005年4月17日 サンケイホール 追加公演」ぶん。
その名でお察しいただけるように、一度、大阪で追善公演をしたところ完売満員御礼・再演希望につき、というもの。公演パンフに拠れば東京は歌舞伎座、名古屋では中日劇場、京都南座でも「桂枝雀 七回忌追善」を銘打ちいずれも軒並み完売だそうで、生前からの桂枝雀の人気ぶりも判ろうというもの。
1500人ものホールでの開催です、2.5時間ものあいだ客を飽きさせんよう、との配慮でしょう、枝雀一門勢揃いの口上あり、師匠である米朝も中入(なかいり。落語会途中の休憩のこと)前でキチンとおさめ、トークショーでは上岡龍太郎の飛び入りありの、なんと笑福亭仁鶴――じつはワタクシこれがお目当てで見に行きました――も高座にあがり、トリは枝雀の生前のVTRを映写する。じつに「事前に入念に準備した興業モノ」を見せてもらった気がいたしました。
七回忌ということもあり
 “いつまでも、さほどしんみりとすることもあるまい
  わしら笑うてもろてなんぼの商売や、ぎょうさん楽しんでいただこやないか”
という趣向だったのでしょう。仕込みに念が入り過ぎ、通例の米朝一門会を見なれている私などは少々面食らい
 「なんだかテレビ番組の公開収録を見てるみたいだなぁ」
と思ったのも事実です。枝雀一門の一番弟子・桂南光が仕切りだったため、余計にそう感じたのやもしれません。桂南光は関西ローカル番組でよく司会仕事をしており、大阪在住の者にとって南光の司会進行という絵ヅラは茶飯事な光景なのです。


追善する桂枝雀について
「じつは入門した頃が近かったこともありまして、小米の名の時代から、ちょくちょく仲良くさせてもろてまして‥‥」
とひとしきり枝雀とのエピソードをマクラで触れたのは、唯一、仁鶴だけ。仁鶴さんと枝雀さんがそんなに古く長いつきあいある仲であることを、ワタクシ、この会ではじめて知りました。演しものは『壷算』。パンフレットには『代脈』と印刷されていますが、なにか枝雀さんとのいわれのある思い出深いネタゆえの土壇場変更だったのかもしれません。
かたや枝雀一門の九雀、米朝一門では弟弟子にあたるざこば、師匠である米朝すらも、自分の噺芸の中にひとことも枝雀の追善に触れることなく、いつもの上手な話芸を淡々と披露します。七回忌という他界されてから経た時間の流れがそうさせてしまうのか、もともとそういう趣向なのか。寄席としては1500人強という相当大規模な興業のため「誰にでもわかりやすい枝雀師匠の魅力」を伝える趣向なのでしょうが、ちょっと故人を偲ぶには身内が他人行儀な印象を受けました。
だが全国興業がすべてソールド・アウト、ということは、やはりそんな「テレビの公開収録のような演出」が当節風の興業なのでしょう。
なにより自分の師匠(米朝)に、あのような形で高座へあがってもらう、というのは、やはり弟子としてはいちばんの「しくじり」のような気がしてなりません。確かに枝雀さんのドタンバタン芸風が一級品であったことは、落語好きならばだれもが認める事実ではありました。しかし、親も同然である師匠を「追悼」に引っ張りだすなんて。それは噺家としては最大の「しくじり」なんじゃないかしらん。とても親不幸な気がします。


枝雀一門下では師匠亡きあとの現在、桂雀々が枝雀師匠の芸風を完全コピーし修得しようと懸命に頑張りはじめています。
それまでは大声でガナリたてる芸風だけに目の行きがちだった雀々が、枝雀が鬼籍に入られたのち芸風をガラリと一新、ほんとうに枝雀師匠の一言一句・仕草動作までも完全コピーを目指し日々稽古に励んでいる姿が、回を重ねることに高座からもよく伝わってまいります。枝雀があのような形で他界されたあと「わが枝雀師匠の芸風を自分の芸風として修得しよう!」と努力しています。
生前、文枝師匠も雀々について誉めておられる一節があります。
「パーっとした」存在の例と申しますと、枝雀君とこの雀々ですか。
彼が『猿後家』という噺の稽古に来た時に感じたんですが、雀々の芸が、まさにパーっと華やかな噺ですな。
あれは努力してできるもんやない。持って生まれたもんなんですね。
教えてて、そう感じましたな。

生前からの枝雀ファンだったかたは、以後ぜひ雀々の公演スケジュールをマメにチェックしておくことをオススメします。会を重ねるごとに、その完コピぶりは一見の価値もあり、また枝雀を慕ってやまぬ雀々なりの敬意の表しかたでもあるのでしょう。
生前、稽古の虫だった桂枝雀が「稽古をつけてもらいたかった師匠」として、明治期に「爆笑王」と呼ばれ大人気だった初代春團治の名をよく口にされていたそうです。今ごろは冥土のほうで、稽古に通っておられることでしょう。(つづく)
2005.06.19初出

大きな箱で演りたがらない理由(1)

ここ四半ヶ月ほどの間に二席の「追善落語会」に寄せさせていただきました。ひとつは「桂枝雀 七回忌 追善落語会」、もうひとつは「高津宮くろもん寄席 桂文枝 追悼特集」です。

あなたがひょっとするとあまり関西の落語事情に詳しくないかたかもしれませんから、追悼される噺家の概略を補記します。ご存知の向きはお読み飛ばしください。


桂枝雀は、桂米朝一門下では最も人気があり、持ちネタも師匠・米朝に次ぎ多かった実力派噺家のひとりです。「枝雀」の襲名としては二代目。米朝師匠の律儀で几帳面な噺の技術をきちんと基礎として修得した上、さらに自分流の演技・演出を模索。ちょっと血のめぐりの悪い登場人物(東京落語でいう「与太郎どころ」)を本当にバカバカしく大きな仕草と表情をまじえ演じさせれば当代一、「爆笑王」の名でファンも多かった落語家です。CDで聞くよりもDVDで見るほうが面白く、DVDで見るよりは間近で演じてもらうほうがさらに面白い芸風で、大人気を博します。
ロスやハワイで上方落語を英語で演じるなど、新境地の開拓にも熱心な噺家でした。
師匠・桂米朝が「上方落語復興の立役者」であるならば、桂枝雀は「米朝一門の立役者」と言ってよいでしょう。
「笑いとは緊張が緩和したときに生まれる」――これは枝雀の金言として、弟子はもとよりファンの間でも既知とされる、枝雀式笑いのスキームです。
かたや「稽古の虫」と渾名づくほどよく稽古をする努力家で、また飄々とした風貌とは裏腹にたいへん躁鬱の激しいかただったそうです。
1999年11月、自殺。


桂文枝は上方落語界では由緒ある名で、先の3月12日鬼籍へはいられた文枝師匠は五代目の襲名。
「はめもの」と呼ばれるお囃子を鳴らしながら賑やかに演じるネタは逸品でしたが、ご高齢になってからはさすがに賑やかなネタを演じることは少なくなりました。よく通る朗々とした綺麗な声で新作/古典ともによく通じ、正統も新作も流麗にこなし笑わせることのできるかたでした。
他の“四天王”と呼ばれる師匠とはまた違った側面で上方落語や関西弁へのこだわりがあったようで、口述筆記の自著『あんけら荘夜話』内にて、弟子にする目安として自分はこう決めている、というようなことを残しています。
私の場合、弟子をとる基準で一番ネックになるのが「なまり」です。言葉に「なまり」があったら、まずあかん。広島から来た子やとか、関西圏でも城崎から来た子や小豆島から来た子にもなまりがありましたよ。
そういう子らには「無理してはなし家になったって、しんどいことやから、やめといたほうがええ」と言うて帰らしました。昔から「はなし家は近畿二府五県の中に入っておれば大阪弁にもなんとか馴れてくるもんやが、その他の出身者はあかん」と言っていましたからね。

松鶴、米朝両師との交流も盛んだったようで、弟子がしくじる(なにか師匠のツラ汚しになるような失敗や事件をおこしてしまうこと)と互いに師匠として仲介し破門を撤回するようとりなしたり、あるいは弟子が稽古したネタを見てもらおうとすると
 「そのネタやったら米朝君トコでつけてもらえ(一遍自分で覚えた芸を見てもらい、マズいところを指摘してもらえ、という符牒)」
などのやりとりもある仲だったようです。なぜか春團治のことはあまり出てきません。
文枝師匠は、拙宅が高津神社の近所なこともあり、幸いにも噺を聞きにゆく機会の多かった「名人」で、私には最も身近な“四天王”でした。昨年夏の恒例「高津宮寄席」での様子を、このサイトでもご紹介しています


ここで二席の追善落語会を持ち出したのは、それぞれの一門の「話芸の楽しませ方」がたいへん対照的で、おなじ「古典演芸・落語」でくくられてしまう中にも、いろいろな興業趣向がありますよ、ということをあなたへお届けしたく、ここに書き残しておこうと思ったためです。(つづく)
2005.06.19初出

都会モンぶりたい田舎モン市場での成功者 ラッセルじいさん

ラッセル・ベイカーすっかり訓示垂れジジイと化したラッセル・ベイカー(Russell Baker)ですが、NY Timesに書いていたころのものは楽しい文章が多かったように記憶しています。今も不定期で署名記事が掲載されているそうですが、目にとまることが少なくなりました――あ!そっか、私がそういうカタい記事ページを読まないからじゃん!

面白い文章ではあるけれど、地口や揶揄、風刺ネタが多いし、きっと翻訳モノは出ていないだろうなあ、と思ったら、ありました!新庄哲夫さんとおっしゃる翻訳家の労作『怒る楽しみ(河出文庫)』。1988年発刊だそうです。早速取り寄せ拝読。

ラッセルじじいの“都会のくたびれた年寄り風情の雰囲気”を殺さないよう配慮された労作です。わたしのショボい意訳よりもよく練られた翻訳文でいらっしゃいます。さすが商業ベース。ここに、そのまま転載し一部をご紹介します。無断転載につき、関係者のかたのご指摘あらば即陳謝し撤去いたします。

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ここはニューヨークだ。
車は道端に停める。街角を曲がったところに停める場合もあれば、通りの向こう側に停めることもあり、窓の真下に停める者もいる。
ドアをすべてロックする。ガソリンの注入口もロックする。そして立ち去る。行先はわからない。マンハッタンでは駐車場所を見つけるのがひと苦労なので、おそらく1キロか2キロもしくは5キロも離れたところまで歩いて行くのだろう。

車の持ち主は、あくる朝の4時まで戻ってこない可能性もある。ことによると、夜通し姿を現さないかもしれない。たとえ、ニュージャージ州のナンバープレートを付けているから日の出前にはハドソン河を渡って帰らなければならないはずだと思われたとしても。
いずれにせよ、ニュージャージ・ナンバーの車だからといって楽観はできない。
ニューヨークでは、車を所有する人の半数が、ニュージャージのナンバープレートをこれ見よがしに付けている。それはニューヨークの過酷な税制を出し抜くひとつの手なのだ。だから、ニュージャージ・ナンバーの車が停まっていても、持ち主は街の反対側にある自分のアパートへ寝に帰る途中かもしれない。

よそ者なら、こう考えるだろう。「まぬけなやつだ。ニューヨークであんなふうに路上駐車しておくとはな――もどってきたら、煙のように車は消えてるぞ」
よそ者がこう考えるのも、ニューヨークという街は犯罪の巣だといった話を、耳にたこができるほど吹き込まれてきたからである。誤解だ。
ニュージャージ・ナンバーを付けたニューヨークの税金逃れどもは、犯罪者に車を盗まれるのではないかという不安は抱いていない。心配ご無用。車には盗難防止警報器が取り付けてある。

誰かが車に触れようものなら、警報器は耳をつんざかんばかりのけたたましい音を立て、六重のレンガ壁を貫き3ブロック向こうまで届くことになる。その界隈の住民はたちどころに、車に触った者がいるなとわかる。泥棒は一目散に逃げて行く。

名案だって?ニューヨークっ子ならそうは思わないだろう。ニューヨークっ子なら、これが名案などといえる代物ではないのを分かっている。悪魔的な手なのである。
なぜなら、なにが起こるかというといったん警報器がわめきはじめたが最後、泥棒がその界隈から逃げ去ったあともひたすらわめきつづけるのである。その音は一本調子の延々とつづく甲高い響きで、レンガ壁を突き抜けるばかりでなく、周囲の住民すべての神経と骨の随にまでキリキリと突き刺さる。
普通、この地獄の試練は20分から30分で終わるのだが、私は4時間もつづいた例を体験している。1時間も我慢したのち、家から逃げ出して映画を見に行ったが、もどってみるとまだけたたましい音が鳴りつづけていた。

時には警官がやってくる。警報器が15分鳴りつづけば、法律上は警官がドアをこじ開けて警報器の電源を切ることが許されているそうだけれど、ニューヨークのオマワリにはもっと差し迫った任務があり、15分も車の悲鳴を聞いている暇はない。とにかく一度なんとかしてもらおうと電話したが、姿を見せたオマワリは、車がロックされているのを知るなり、手の打ちようがありませんな、と言って謝り、無線命令に従ってもっと重要な事件を処理しようとあたふたと立ち去った。

ほかの町では――おそらくほとんどの町でそうだろうが――窓の下に駐車され、何時間も工場のサイレンのように鳴りつづける車にどう対処すべきか心得ているはずだ。
たぶん騒音に苦しんでいる隣人たちが臨時会合を開き、警察の取り調べには黙秘しようと誓い合ったのち、誰かに全権限を委任し、鉄棒で車の窓をたたき割り、ドアを開けて電線を引きちぎってもらうことになるだろう。
ことによると、町をあげて、車なら社会全体にのさばっても許されるといった態度に業を煮やし、車に殺到してホウキの柄や鉄棒でたたきのめし、絶叫がしわがれたすすり泣きになるまでやっつけるかもしれない。

そう。いうまでもなく不公平なのは、2000人の罪なき遵法精神に富んだ市民が苦痛を味わいながら、事件の当本人――車の持ち主と泥棒――のほうは、ぬくぬくとベッドやバーにおさまり、責任をとってしかるべき苦悩とはまるで無関係にいることである。

それでもわれわれニューヨークっ子はその無礼千万な車に対して礼を失することもない。
ニューヨークでは、そうなのだ!巷の噂とは裏腹に、私たちは心優しき人々なのだ!
川底で故障した地下鉄の暗闇の中でも辛抱強く座りつづけ、騒ぎ立てたりはしない。
世界全体を自分専用のトイレとみなす輩が歩道に用を足した跡も、黙ってまたいで通り過ぎ、平然としたものわかりのよい顔つきをくずさない。

駐車している車からの絶叫に襲われたときは、自宅の窓を力まかせに押し上げ、ただじっとにらみつけるかもしれないし、歩道まで出て行き、隣人と笑顔で愚痴をこぼしあうことさえあるかもしれない。
しかし、誰も――誰一人として――鳶ぐちをボンネットやフロントガラスにふるって、あえて気晴らしをしたいと思っている者はいない。
遅かれ早かれ、かならず車の持ち主がもどり、車を開け、警報器のスイッチを切り、私たちのほうを見てバツの悪そうな薄笑いを浮かべるのがわかっているからである。

私たちのなかでも少し大胆な人は、ちょっと眉をしかめてみせるかもしれない。しかしそれが精一杯である。この街では誰もが厳しくセルフ・コントロールしている。
ニューヨークのような大都会では、セルフ・コントロールが厳しくなければならない。すこぶる厳しいものでなくては。
だからニューヨークっ子はやさしいのだ。ものわかりもいい。震えるほど自制している。年がら年じゅう、殺人をやりかねない状況にありながら、常に厳しく自分を抑えこんでいる。だから、やさしいのである。
(「心優しき人々」(『怒る楽しみ』河出書房 1992.7版)

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「都会のくたびれた年寄り」を書かせればボブ・グリーンとてひけはとらないし、いや、むしろボブ・グリーンのほうがセンシティブです。が、ペーソスもユーモアも混ぜ込んだこんな文章のほうが、私は読んでいて楽しく、昔から好きです。

上の抜書きでも「われわれニューヨークっ子」なんぞと共感煽りながら、いっぽうで「私は地方出身者で 都会にでてきたときに こんな違和感を感じた」の類のことを臆面もなく書きつらねた無節操さがよかった。ウケりゃ、なんでもアリだったよな、ジイさんよお。
『グローイング・アップ』さえヒットしなければ、きっとまだまだ、こんな文章をたくさん書き続けてくれたでしょうに。


(2005.05.21補記)
Baker's Book of American Humor「昔のラッセル・ベイカーって、面白かったよね」と感じていたのはどうもワタクシひとりではなかったようです。
アメリカで『Russell Baker's Book of American Humor』という編集者と共同作業で昔書き散らしたエッセイ文を編纂したダイジュエスト版が1993年に再刊行。そこそこのセールスを確保しました。10年経た今日でも、ポツポツとロングセラーを記録更新している模様。
ご興味のあるかたはご一読を。
2004.07.15初出

おなじみの一席(4)

「見てみい。街道筋往来ど真ん中で人だかりしたぁるで。」
「ほんまや。喧嘩なっとしとるんかな。ちょっと聞いてみたろか。
 申し!そこのかた!エラい人だかりだんな?」
「そうだんねん。ほれ。あっこ見てみなはれ。」
「太い指だんなぁ」
「わたいの指見てどないしまんの。指の先ですがな」
「爪垢溜まったぁりまっせ。切りなはれ。」
「いらんコト言わんでよろし。分からん人やな。爪の先や!」
「馬、寝たぁりまんがな。」
「せやがな。」
「そら馬かて寝ること、おまっしゃろ。」
「あんさん、知らんかえ?馬ちなモン、寝る時も立って寝まんねんで。」
「…はあ。そないですのん。」
「ですがな。」
「満員電車でも寝れまんな。便利な体質や。」
「アホ言うてたらあきません。馬ちなモンが通勤電車乗りますかいな。」
「ほたら何ですか、馬が横になるてな、よっぽどのことですわな。」
「せやがな。何でもこの処ちぃと馬の体弱っとるところに、からげた荷ぃ重過ぎたとかで、倒れてもうてからこっち、起き上がれなんだそうな。」
「はあ、難儀なこってすなぁ。往来の真ん中で。」
「ですやろ。そんでもってあんさん、ほれ、あっこ見てみなはれ。」
「爪垢溜まったぁりまっせ。手入れしなはれ。」
「せやから、わたいの指先はどうでもよろし!
 荷の下や!」
「“に”の下でしたら“ほ”ですやろ。」
「いろは歌やってんと違います、荷物の下、見なはれ!言うてんのや!」
「ありゃ!荷物の下から、人の足2本出たぁる!
 けったいな荷物やなぁ。人の足てなモン、売りモンになりますかえ?」
「違いますがな、分からんお人やなぁ。重い荷物の下敷きになってうーうー唸ってるかた、居てますねん。」
「えらいこってすがな!」
「えらいことですねん。」
「馬どけな、あきませんやん!」
「さあさ、それが畜生のあさましさ、お百姓がどないさばいても、ビクともせなんだ。
 かと言って、あない大きな馬と重たい荷物どないしてよけよ?てな騒ぎになってまんねん。」


遠まきにわあわあ言うておりますと、さいぜんから人影にかくれておりましたが、意を決した顔いたしました男がひとり人波かきわけ出てまいりまして。
馬のねきに来たかと思いますとフン!と腰入れ踏ん張り、馬も荷物も力まかせにドッターンとひっくり返してしまいます。
そりゃもう、ようやった大した力持ちやと、やんややんやの拍手喝采、大騒ぎになりまして。


「大したモンや。自慢気な顔ひとつもせんと、さっさと人影に隠れてまいよった。世の中には、いなせなかたが居てるモンや。」
「わい、チラと見たで。あれ、主水町の顔役はんとちゃうか?」
「へ?主水町の顔役いうたら、あんた、このところ有名な貝菓子はんかいな?」
「せや。たぶん貝菓子はんや。」


これを聞いておりましたのが、大たぶさの髪を結いまして太身の大小を挿した立派な侍。
南蛮鉄の覆いのついた、バーンとどつかれたら頭割れるんちゃうかというような立派な鉄扇なんぞ持ちまして、広げると詩だの五だの六だの難しいこと書いてございまして、読んでわからん見てわからん、これこういうことが書いてあると伺えば余計わからんというようなややこしいモン持ちまして
「これこれ。そこの町人。」
「うわあ、お侍出て来よったで。へいへい。なんでございましょ。」
「余はパリ城下藩中にてジャベールと申す者。その方、今しがた馬の荷覆し者の名何と申した?」
「恐れ入りしてございます。馬煮よりも角煮のほうが好きでして」
「あー、その方の食の嗜好など尋ねておらぬ。
 先に瀕死の者救いし者の名を尋ねておる。」
「へい、恐れ入りましてございます。手前どももよくは存じませんが“貝菓子さん”呼んでおります。」
「貝菓子と申すか。」
「へぇ。なかなか商売上手なうえ、情のお厚いかたやそうで、このところ評判でございまして。」
「所をどこといたす?主水町と耳にしたが?」
「違いございません。この筋をズーっと南へ行きまして、3つ目を東へ入りましたあたりでございます。」
「左様か。心得た。手間をとらせた。」
「恐れ入りましてございます。」
「ときに町人。」
「へ。なんでございましょう。」
「爪の手入れをいたせ。見苦しい。」

おあと無情な続きがおありのようで。
2006.05.14初出

おなじみの一席(3)

「あー、定吉。定吉はおりますかな。」
「へぇ〜い。
 ええ、旦さん。誠に相すいませんこってすが。」
「なんじゃいな。」
「わたい、亀吉でございます。ええ加減、名前ぐらい覚えていただきたく。」
「ああ。すまなんだな。」
「お呼びにくいこってしたら“亀!”でも結構ですさかい。」
「亀ってな呼びかた、おかしいやろ。だいたいおまはん、ツバメやないか。」
「ツバメやろうとツルやろうと、亀は亀です!」
「ややこしなあ。ほたら“ツバメの亀!”これでよろしいかな?」
「へいへい、おおきに。ありがとうございます。」


「ちょっと使いを頼まれてもらいたい。」
「またですかいな。」
「そないヤな顔しいなや。商売の勉強てな、愛想が、いの一番と違いますかえ?」
「…はぁ。
 わたい、別に商売しとうて、ここに居るんとちゃうねんけどな。」
「何をごちゃごちゃ言うてなさる。ほたら今から暇出しましょか?」
「今ごろお暇いただいても家帰られやしまへんがな、こない寒なってもうたら…エラいのんに捕まってもうた、今年はワヤや…。
 へいへい!
 もう今年の冬は動けしまへん!
 旦さんのお供、どこまでもさせていただきます!」
「おぅおぅ。よう言うてくれた。
 子供は子供なりに、気ぃ使ぉうてくれなさる。ありがたいこっちゃで。
 この先、南へ南へ下がった所にな、台本書きの締切に追われオタオタしてなさる不憫な物書きさんが居てなさる。寒くて手ぇかじかんで、なかなか筆も進まんようじゃて。
 ひとつ、この、目玉のサファイアを持っていってもらいたい。」


「旦さん。お言葉返すようですけどな。」
「なんじゃいな。」
「旦さん、ちぃとお人が良ろし過ぎゃしまへんか?
 こん前かて“ムチャクチャな納期で難儀してなさる病い持ちのお子を抱えたお針子さんが不憫やさかい、刀の先のルビー持ってってやんなはれ”てなこと、旦さんおっしゃって、わたい、持って行きましたがな。」
「ええ事したがな。」
「わたい“行け!”言われたから、渋々行きましたけどな。
 あんな高価で上等なルビーの価値、あない貧乏たらし連中がわかりますやろか?
 二束三文で質下ろしやなんやに使ぉてもうたん、ちゃうかなぁ。
 わたい、貧乏の子ですさかいな、貧乏人のいじましい甲斐性、よう知ってますねん。
 しまいに身ぐるみ剥がされ、旦さん、丸裸にされっまっせ。」
「これ!定!」
「亀でおま。」
「ああ、さよか…ええ…ツバメの亀!…どうも難儀やな…」
「何です?旦さん。」
「子供がわかったような口ききなはんな!ぶつくさ言わんと、持って行き!」
「へいへい。では行って参ります…わたい、知らんで…」
2006.05.24初出

わても勤めの身 熊野のカラスを3000殺し ゆっくり朝寝がしてみたい

今年も高津(こうづ)神社ではにぎやかに夏祭り。この神社、毎月「なんやら祭」をやっており賑やかといえば賑やか、騒々しいといえば相当騒々しい。周辺近隣界隈に親しまれる古くからある神社です。拙宅のごくごく近所の神社なんでございます。

今日び大きな祭りはたいてい観光資源化してしまっていることが多いのですが、文枝師匠いわく
(今の祭りは)自分とは関係のないよその土地の祭りを泊りがけで見物に行ってるわけですな。
「あそこへ行って、こういう祭りを見物しよう」 というのが今の祭りですけど、われわれの時代には「自分とこの祭り」という考えで楽しんでました。
祭りは参加するもんやと思うんですよ。
その中にとけこむ楽しさがあるんやないでしょうか。(『あんけら荘夜話』
の余韻色濃く残る、市街地の夏祭りのひとつです。
桂文枝その文枝師匠、今年も恒例高津落語会で、話芸披露いただけました。
今年は『三枚起請』。
もうこれが見納めかも、もうこれで最後かもと思いながら、盆正月の年2回ほど聞き通い早数年になりましょうか。
「鳴り物の小文枝」で名を馳せたかつてを思えば、語り中心のずいぶんおだやかな話芸ではございましたが、そんなこたぁ大した問題じゃあない、近所の夏祭りの座敷に毎年文枝が来てくれる!聞ける!というのは、大阪住まいの特権です。近所のスーパーのアトラクションに仮面ライダーブレイドが来るがごとく、文枝が演じてくれるなんて。
なるほど大阪笑芸の弛まぬ活気は、こういう身近なトコロで肥えた芸に直に触れ続けることができ、それがごくごくあたり前な風土の賜物かと得心した次第です。「いくらオペラを勉強してもネイティブに叶わない」とボヤいた知人オペラ留学生の物言いも、さもあらん。


前座は笑福亭たま『船徳』、二ツ目は桂つく枝『青菜』。ご両人とも夏の風物を加味し涼しげな話を選っていただき、このクソ暑い夏の夕暮れに良き涼味をもたらしておられました。上方落語はクスグリ豊富です、江戸『船徳』を聞き馴れた御仁もご一聴をおすすめします。
もちろん師匠の『三枚起請』でさらに涼味もひときわ増して…増し…ええっと、いいんです、師匠は。ご健勝であれば。


文枝師匠ご本人については、大阪・日本橋の「山崎」という料理屋さんのサイトで『あんけら荘夜話』ほぼ全文をオンライン公開されておられ、女将さんがお好きなのでしょうね、けどいいのかなあ?こういうの、まだ絶版じゃないのになあ、版権とかヤヤこしくないのかなあ、などと思いつつ、とても大部の資料を入力しておられ、ご関心のある向きにはご一読をおすすめします。戦後の壊滅寸前だった上方落語のいきさつと復興の様子が偲ばれ、さらに師匠の半生までが概観できる大変オトクな資料となっております。よかったら、文枝師匠の年金の足しになると思って買ってください。


落語好きには筆マメなかたが多いようで、オンラインのあちこちでネタ原文をご披露いただいています。
本日の元ネタをば。
 船徳
 青菜
 三枚起請
ちなみにマクラやクスグリは上記の記載よりもさらに多うございました。そのネタひとつひとつを「文枝はここでこんなクスグリを入れていた」「米朝さんはここでこう笑いをとっていた」などと延々垂れ流しはじめるとやたら長文化いたします。今宵寄せていただいた客の特権ということで本日はご容赦いただきたく。
タワーマンションがぐんぐんそびえ建つ街中で、100年も前の浴衣姿のころの風情話で笑うひととき、というのも、なかなか当世風の熱帯夜の過ごしかたではあります。


贅をこらしたタワーマンション群を見上げながら、わたくし、ふと思いましたよ、果たして100年後に、これらの話芸がこのマンション同様残っているんだかどうだか。
祭り太鼓は、まだまだ、街中に響いております。
2004.07.20初出

子供がトリにはばたく日――ある日の米朝一門会

「もう15回も演りましたか…。」
2005年1月の新春恒例・サンケイホール『米朝一門会』が終演。
改築工事のため来年は開かれないサンケイホールの『米朝一門会』。初笑い演芸会に、なにやら少し寂しい気持ちを少しひきずり、あとにいたしました。
『『米朝一門会』はほうぼうで息長く根気よく演り続けられ、回を重ねるごとに盛況になりました。ここ10年ほどは1500人ほどの会場にも入りきれず、簡易イスや立ち見が出るほど盛会な催事です。
サンケイホールには、年配の常連客に混じり、明らかに学生さんだろうと思われる若いカップルが、何組も来ています。
着付けぬ晴れ着の女性も、幾人かご来場されています。初詣の帰りに落語を聴きにいらっしゃったのでしょう。
大学の落研でしょうか、若いグループは何組も群れなし、ホールロビーのあちこちで大きな声を出し騒ぎあっています。
若い彼らは、からむ痰を切り切りおだやかに正月噺を語る中入り前の年寄りを、面白がってくれたでしょうか?


ときに。
ずいぶんとずいぶんと昔の話です。
わたくしが大阪にやってきた頃、背中をまるめロレツの回らぬ語り口で飄々と話す年寄りの噺家がいました。
年寄りの噺はどっ!とウケる様子もなく、常連と思われし中年や初老のオトナの客たちが、老人の噺をクスリクスリと笑いながら、かみしめ味わうようでありました。
どっ!と笑いをとる、というならば、老人のあとに出てきた四角い顔の声の大きな噺家のほうが、はるかに大きな笑いをとっていました。
当時はまだ青臭かったわたくしにも、ただの面白い噺を知るご老人、としか目に映らなかったものです。


老いた噺家の名は松鶴、といいました。


先にも後にも、六代目松鶴師匠の噺をじかに聞くことができたのは、その一度きり。しばらくして上野動物園のパンダが死んだ日に鬼籍に入られます。弟子にあとあとまで
「ウチの師匠が亡くなった記事は、パンダの死んだ記事の1/10の扱いやった。
 ウチの師匠はパンダ以下かい!」
とネタにされてしまうことになります。


あの日わが目に映った松鶴師匠が、今日サンケイホールに集まるこの若いかたがたに映る米朝さんなんだ――そう思うと、心の声が大きくなるのでありました、このおじいさんはね、カツラ・ベイチョウさんといってだね、当代きってのネタ持ち噺家でね、上方落語をここまで大きく育てた立役者でね、すっごい博識でね、偏固でね、素晴らしいお弟子さんをたくさん育ててね、古い噺もぎょうさんぎょうさん掘り起こしてだね、えーっと…生気あふれる彼らの後姿に向かい米朝さんのなんたるかを伝えたく、心の声を大にしているのでありました。
しかし。
あの日、松鶴師匠の面白さを教えたかったであろう老練の常連たちの目線がなにを意味するか、ワタクシがまったく受け止められなかったように、ワタクシの心の声も彼ら若いお客さんがたには、なにも届きますまい。


あの日いちばん面白かったのが若き仁鶴だったように、この日最もウケていたのは南光・ざこばでした。
そして、トリの小米朝。
「えー。たくさんのおはこび、ありがとうございます。七光りでございます」
で始め、
「どこかで聞いたような噺、たとえば親が人間国宝だとか…ええ。そんな噺がございましてえ」と振ってから始めたのは『親子茶屋』。そう、米団治直系の正統噺で堂々と催事を締める息子の熱演でした。


噺終わったあと小米朝は
「サンケイホールは本年より改修されるのでございまして、来年の一門会はございません。
 再来年には、また新しく、生まれ変わるそうでございます。
 そのときにはどうか、またのおはこびを。」
と深々と丁寧に頭を下げ、鳴り物とともに幕を締めました。
見慣れたサンケイホールの緞帳が、いつものように降りてゆきます。ほんとうに、いつもいつも見てきたときと同じように。同じように。


建物を出てふと振り返ると、ちょうど晴着のように瀟洒なビル群に周囲を囲まれ、すっかりくすみ小さく古ぼけてしまったサンケイホールのシルエットが、こじんまり。
初出:2005.01.08



2005/01/29 14:25 投稿者:aitea2003
しみじみと読ませて頂きました。

2005/01/29 15:34 投稿者:Donald_Mac
http://d.hatena.ne.jp/aitea2003/
のかたですね。ありがとうございます。


(追記)
パンダと同じ命日は、笑福亭松鶴ではなく三遊亭円生とのご指摘をいただきました。追記させていただきます。 2008.12.10

水の扉にイエローゲート

「あなたたちは充分すぎるほど知ってしまったので、2人ともこの家から出てはなりません」
ゴトーは身につけた長い日本刀で威嚇した。父娘は刀におびえ震え、身を寄せ合っていた。
「神のもとへやがて召されるあなたたちに、教えます。
 かつて群馬屋の倉庫の鍵を開けたのは、そこにいる、あなたのお父さんです。いいえ。“鍵引き裂きの辰”と言ったほうがよいでしょうか?」
「お染にそれは言わない約束でした!」
「お父さん。お父さん。今の説明は、本当ですか?」すがるような瞳で父・タツキチを見つめる娘・オソメ。
「赤ちゃんをひきとり更正したように見せていますけれども、あなたのお父さんは悪い人でした」
「この人は、わたしのお父さんです。
 昔がどうであれ、今ではわたしの大切なお父さんです。
 たったひとりの、私のお父さんです」
なお1人の娘に300人の父親がいる例は、日本でもあまりない。
「お染‥‥」
「あなたはお父さんを慕っていることが私にはわかりました。たいへん感心しました。それではお父さんも娘さんも、仲よく次の世紀まで送り出します」


その時。
暗闇から一迅の風車が投げつけられた。
風車はゴトーの手の甲に当たった。
おそらく風車に見せかけたシュリケーンだろう、ゴトーは激痛に耐えかね、日本刀を落とした。(訳者注:シュリケーンとはニンジャが好んで使うカードタイプの日本刀。主に投げて使う。日本の少年はオリガミでシュリケーンを作ることができる)
「それぐらいにしておいてあげなさい、後藤さん」いつの間に侵入したのであろうか。さきほどの老人が、よく通る声で彼らの会話を差し止めた。「鹿といっしょに見続けました、あなたの行いを。 あなたは新潟屋と結託し治水工事費を横領したばかりではなく、立ち直ってつましやかに暮らす市民に強盗を強要し、その罪をかぶせようとしました。あなたとて、人のことは言えないのではありませんか?」

糾弾されたゴトーは、悔しそうにぎりりと奥歯を噛み締め、だが表情を改めこう切り出した。
「しかたがありません。まとめてみなさんの面倒を見ることにします。
 おーい!みんな!出会ってください!出会いに来てください!新しいみなさんに挨拶を!綺麗に!綺麗になさい!」
しかし老人はゴトーの庇護の申し出を断ったばかりではなく、極端な態度をとった。「助さん、格さん、彼らに極刑を与えよ!」
なぜか大乱闘が始まった。


「お静かに!お静かに!」カクノシンが場を制した。「まあまあ。抑えて、抑えて。」自分たちでけしかけておいてこの態度はいかがなものであろうか。
「この薬入れのマークが見えますか?
 ところで、ここにいる人は、どんな人だと思っていますか?
 元ショーグンのオブザーバーだった水戸光圀さんが、ここにあります。
 後ろのかたにも見えるよう頭をもっと低くして、このマークを書き控えておいてください!書き控えていますよね?」
皆が一斉にすわりこんだ。薬入れのマークがよく見えるようにとの配慮だろう。
2003.08初出

二階なき家屋を語る

コーサラ国の首都マヘート近郊に、かつて仏事由来の公共施設があった。
ここをサヘート苑と名づけておこう。
遠く紀元前の話である。
サヘート苑の時を告げる大きな梵鐘の音に合わせ、近隣の者々は日々の暮らしを営んでいたのである。


インド北東部サヘート苑は現在もシュラグスティ公園の名で現存する。
ひとけもまばらなこの記念公園の中は存外広い。
余談ながら、この地にたたずめば、今は焼失してしまった鐘の音が聞こえてくるかのような錯覚におちいる。中世の民の気配に、思わず筆者は振り返ったのである。
当時サヘート苑の梵鐘は相当に有名な観光名所であった。
『原堀非礼張』によれば、鐘の音はヒマラヤを越え、遠く極東の島国・日本にまで聞こえたとある。むろん中世の風流人ならではの誇張ではある。が、生きのびるためには息を大きく吐くのも困難だったこの時代にも、東アジア文化圏での交流の活発さを察するにあまりあるといえなくもないとはかぎらないと考えられないこともないとふと筆者は思いを馳せながら、郷土史家・スーダララッタ=スラスラスイスイスイ氏の説明を聞き及ぶのである。


酷乾の地・北インド地方においては、鐘の音は高く鋭く響き、また遠くまで伝わる。
筆者が取材中訪れた折のことである。修行僧の鳴らすチャーンチャカチャーという持ち歩き用の鈴の音色は、修行僧が筆者の目に映るはるか以前から耳元を一度ならずくすぐった。この体験から察するところ、当時サヘート苑のよほど巨大な梵鐘の音(ね)は、さぞや遠くまで響き及んだと思われるのである。
ショギョーン。
ムジョーン。
はたして遥か数万キロメートル離れた極東の島国に届く音色が、筆者が耳にしたものと同様の高い金属音であったかどうか。読者の見識にゆだねるほかない。
今は聞くことの叶わない梵鐘の高い金属音に
諸行
無常
の、文字を充てるに筆者はやぶさかではない。サヘート苑に
祇園精舎
と、文字があてられることは承知の事実だが、このことはこの稿とは関係がない。


すこし時間を遡る。
谷忠治、チュウジと当人は呼ぶが、かれの知人たちの多くは、タダハルとよんでいたらしい。
幕末のころは、クレオパトラ・アントニウスと称していた。
元来は儒者の家の出で、かれも幕末、朝命による唐留学を命ぜられたほどだったから、学問が不得手なほうではなかったのだろう。
が、気質はそれに適いていたかどうか。若いころ、天下のことに鬱屈しはじめると物事が手につかなくなるというところがあり、かといって積極的にその種の運動者の群に身を投ずるということもなかった。ただし康平二年(1061年)同郷の鼻肇を知るにおよんで、活動的ではないにせよ、勤皇派に属することになる。保守的な朝廷にあって勤皇派に属するということは、容易な心事でできることではない。
その日々はよほど多忙をきわめたらしく
「礼は誠に虚器に非ざるなり 牛車に乗らば必ず眠くなり候」
という言葉を、忠治がその手記の『鵞鳥(帳)』に書いているが、日々の繁忙ぶりをよくあらわしている。車に乗るとすると必ず睡魔が襲うというのである。
必睡、
である。


12月中旬、忠治は膳所の風評を耳にする。
この時期の膳所頭は、犬塚という在郷の出である。
まだ23、4でしかない。
べつに手腕があるわけでもなく、年齢からいっても経験を積みかさねているというわけでもない。
ただ舌感に優れていたために、先代植木のときより御台所を司どり、さらには器洗の役を命ぜられ食膳の事後を賄った。
犬塚は着任したばかりの忠治の車中の居眠りを鼻白んでいた。
その噂を聞くに及び、忠治は
「金輪際、半睡たがはず」
と、声高に言ったという。
要するに、皿掃除の鼻の色から、乗車必睡の断りを顕したのである。
忠治の生きざまをよく伝える逸話であろう。
だが、このことはこの稿とはやはり関係がない。


余談を続ける。
忠治は承徳二年(1098年)に備前へ赴任する。
清水義範さんに同工の司馬遥太郎のパスティーシュがあります忠治が去って後のこの地の磊落ぶりは目にあまるものがあった。平素、忠治はその酒量が一斗樽とまで言われるほどの豪傑肌で知られた。従者を引き連れ大盤振舞いをよくした忠治を懐古し
「久しくおごってくれた者がない。 忠治候の治世の時代が夢のようだ」
と、『唖驚為吾郎』にある。
2003.08初出

すばらしき(バカテキスト)世界旅行には 兼高かおるも久米明も いざなってくれなんだ

なにが口惜しいって、その国の言葉がわからないことです。
「あのあたり突つけば、ぜ〜ったい、笑えるネタ芸が見つかるだろうな」という臭いは感じるのに、悲しいかな言葉の壁ゆえさわれないフィールドが、世にはあまた存在します。
たとえば香港あたりはしょーもないくっだらない腹抱えて笑える京劇ベース話芸がありそうだよなあ、とか、「ユダヤ・ジョーク」の名前で邦訳されている一問一答コントなんざパーティ・ジョークレベルなんじゃねえの?もっと作りこんだサタイアものなんかどっさりあるんじゃねーの?などなど…。


『ウンベルト・エーコの文体練習』に歓喜した理由は、そこにあります。新潮社、エラい!もう1回ぐらい誉めておきましょうか?新潮社、偉い!


原文はイタリア語。ワタクシ読めません。
ネタが60年代前半しかも学者肌の著者ということで、時事性にはとんと欠けます。時事モノでは辛うじてヌーベル・ヴァーグを茶化すあたりが笑えるぐらいでしょうか。
したがって芸能人がどうのこうのといったネタや、地口やひとことツッコミオチで一瞬わあ!と笑うのがお好きな向きには、さして面白くはないでありましょう。それはイコール、ご当節向きではない、ということでもあります。
けれども、こんな文章を面白がる向きには、お気に召していただけると思います。
 …この人類学の新潮流の方法も、深刻な誤謬へと通じうるものであった。その例としては、研究者が研究した<モデル>に文化の威厳を認めたがゆえに、記述の対象となった原住民が直接生みだした資料に立ち戻って、その資料から集団自体の特徴を推論した場合である。

 こうした<歴史記述幻想>の典型的な一例は、まさしくミラノの集落に関して、1910年にドブ・ドブ博士(ドブ)によって出版された『イタリアの集落と<リソルジメント>信仰』と題された書物によってあたえられる。
その本のなかでこの研究者は土地住民の歴史文書に基づいて半島の歴史を再構築しようとしている。
    :
    :
    :
 ミラノ原住民の一日は基本的な太陽律に則って展開する。朝早く目覚めるとかれはこの住民の典型的な職務へと向かう。それは栽園での鋼鉄採集、金属形鋼の栽培、可塑性素材のなめし、屋内化学肥料の売買、トランジスターの種蒔き、スクーターの放牧、アルファロメオの飼育などである。
しかしながら原住民は自分の仕事を愛してはおらず、できるかぎり働きはじめるときを遅らせようとする。

興味深いのは、集落の長たちがそれを助け、たとえば通常の輸送手段を排除し、初期の路面電車の軌道を撤去し、ケモノ道に沿って描かれた幅広の黄色い縞(あきらかにタブーの意味が込められている)によって交通を混乱させ、遂にはもっとも予測不可能な地点各所に深い穴を掘り、そこに多数の原住民が墜落し、おそらくは土地の神々に捧げられているものと思われる。
こうした集落の長たちの態度を心理学的に説明することは困難であるが、こうしたコミュニケーション儀式の破壊が死者復活の儀式に結びついていることは違いない(明らかに浮かぶのは、地球の胎内に住民集団を拘束し、かれらの生贄から子孫が、それもより頑強で屈強な人々が生まれてくるであろうということである)。

しかし住人は即座に神経症的症候群によってこの長たちの態度に反撥を示し、一見自然発生的に生じた、ある崇拝を入念につくりあげたのである。
正真正銘の集団的熱狂の一例であるこの崇拝とは<貨物地下鉄崇拝(チューブ・カルト)>とよばれる。
つまり特定の時代には町中<騒音>が蔓延し、原住民たちは、いつの日か巨大な乗り物が地球の胎内を移動し、奇跡的な速度で個々人を集落のいかなる地点にも運ぶ日が到来するという神秘的ともいえる確信に取り憑かれているのである。

わが調査団の信頼できる有能な一員であるムアパシュ博士は、ある時点でむしろ<騒音>とは何らかの現実的事件に端を発しているのではないかと自問するに至り、これらの洞窟に下りてみた。
ところがたとえ僅かなりとでも噂を正当化しうるものは何ひとつ見つからなかったのである。

この箇所だけ読むと、往年の藤子不二雄のSF短編マンガモドキのようでもありますね。あるいはあんまり上手くないSF作家がまず1度はトライする
「宇宙人の視点でみた一般生活報告」
「出てきた遺跡から未来人が20世紀についてとんでもない推理を披露する」
設定の話――おおかたはちょっと皮肉めいて書いてあるけど、大したうがちになっていない類のヤツのような。この『ウンベルト・エーコの文体練習』もそのきらい無きにもあらず、ではございますが、なんといっても作りこんでおります。このあと、ちゃんとミラノ街路神話構造も出てくる念の入れよう。再読三読に充分耐えるネタです。


ワタクシなんぞもかつて拙いながら『悲しき熱帯』ネタを作ったこともあり
「え?こう言い回したほうがレビィさんぽいんだけどな」
などという一節も何箇所かあるのですが、原文なのか翻訳文のせいなのか、イタリア語の読めないワタクシにはわかりかねています。


ほかにも『神曲』『審判』『フィネガンズ・ウェイク』『ユリシーズ』『ドン・キホーテ』『失われた時を求めて』『笑いについて』『オデュッセイア』『帝国の地図』『ガルガンチュワとパンタグリュエル』など各種とりそろえ、あなたさまのお越しを心よりお待ち申し上げておられまして、「帝国の地図 縮尺1/1」制作方法なんかを、じつに真面目くさって解説しておられます、わはははっばかだね〜げらげらげら。
ワタクシが元ネタを判別できたのはそれぐらいですが、他にもいろいろこれでもかと混ぜ込んでおるようです。さすがゴチック文化華開いたお土地柄、盛りつけもてんこ盛りで大層ハデでございます。
もちろんヨーロッパお約束の『バイブル』はいうまでもなく。


イタリアではエーコせんせだけが孤軍奮闘、こういうことを書いているわけでもなかろう、ほかにもたくさん居られるはずなのです。が、残念ながら日本語圏にはこれっぽっちの情報も入ってこない。
いや、イタリアだけじゃありません。
インドの小林信彦やブラジルの清水義範や、ドイツの筒井康隆だの香港の東野圭吾だのが、たくさんたくさん各国各地方に居るだろう、それは容易に想像できましょう。だが何ひとつ日本語圏内に入って来やしません。
それはひとゆえに商業出版の採算ベースにのらないからでしょう。
エーコせんせの『文体練習』は当時のたてつづけのヒット商品『薔薇の名前』『フーコーの振り子』の便乗品として、たまたま入ってきてくれた流行品でした。
海外バカテキストものは便乗のタイミングでひょいと輸入されることがままあるために、全然関係ないと思われる分野にもアンテナを立てておかなければならず、収集するのになかなか苦労します。
2004.08.21初出

イザベラおばさん再び

チューン内でご紹介の曲・収録アルバム(クリックするとお求め頂けるものもあります)

おなじみの一席(2)

「ぼんさん、ぼんさん。」
「なんや、お樹里はんやないか。
 今日はまた、何ぞ用かえ。」
「はあ。わたい、どうないしょかな思いまして、お尋ねに伺いましてん。」
「…またかいな。」
「そない言わんといてください。ウチ困ってますねんわ。」
「まあ聞かいでも、ないけどな。
 拙僧ごときが、どこまでお役にたてるかどうか。
 先般かて“どないしてもウチら一緒になりたいさかい”いうよって、しゃーないから仏前でひっそり夫婦の契り交わしたばかりやないか。
 ほたら途端に、あんたんトコのご亭主、あないヤヤこしことしなはって、んまに。
 こない言うたらはばかりさんやけどな、ちぃとあんたんトコの亭主、血の気多くありゃせんかい?」


「ウチの人、悪いよう言わんといてください!
 あの日のこと、ウチ一生忘れやしまへんわ、ええ日やったわぁ。
 ウチ言いましてん“おおロミはん、なんであんさんロミオやのん?”」
「…あたり前やがな、そない名前なんやさかい。
 喜六どんを“ロミオ”てな呼んだらアホや。」


「ほたらウチの人、こない言うてくれまして“家柄なんぞ何ちゅうことおまへん、すぐにでも捨てさせていただきます、恋人なっと何なっと呼んでおくれやす”ウチ嬉しうて嬉しうて、その場で小躍りしてまいましたわ、あ、♪チャンリン トテチテ」
「こらこら!こんな座敷で踊られては、どもならんがな。座んなはれ!」


「ウチは離れであん人のことボッーと想ってましたらな、なんと、あんた、ウチのひと、離れまで来てくれなさって!お引き合わせのご縁ちゅうモン、ございますねんなあ、ウチそん時ホンマに思いましたわ。
 ほんで尋ねましてん“どないしてここまで来はりましたん?”ほたらウチの人こない言いますのやわ“手綱からげ塀あがって来ましてん”」
「火消しみたいなやっちゃな。」


「そんでウチの人ったらこない言うてくれましてん“案内人など居てしまへん、たといどれほど離れていましょうと、果るかな海に洗わるる広々たる岸辺やとて、おまはんという宝を求め、旅をお続け申します”やなんて、あーた、嬉しいやおまへんか!バシッ!」
「痛たたた!拙僧を叩いて惚気話聞かされても、どもならん。
 まあまあ、夫婦仲良きこと、誠に結構。あんじょう、おやりなさい。
 時期見て御両家うまく取り計らうよう、拙僧心積もりがありますでな。
 で、今日は、何しに来なさったん?」


「さあさ、それですねんわ。
 実は、ウチのお父はんが、ええ御大家の話来たさかい見合いせえと、こない始まりましてん。
 ウチよう断らんよってからに、タンタンタンタンと進んでもうて、祝言あげよかてな話になってしまいましてな。
 もうウチどないしよ思いましてな、ご膳も喉よう通りゃしませんのや、今朝かて茶碗13杯しか食べられませなんだ。夜もよう寝られなんだ、夕べ寝たのがほんの10時間ほど」
「…至って健常やないか…ぶつぶつ…はあ、なるほど。」
「普段はお香子だけで20杯はいきますねん。」
「誰もおまはんの茶碗の数など尋ねとりゃ、せん。
 とはいえ、それは困り申したな。
 公にはせなんだけれど、おまはんらはすでに夫婦の契りを交わしておられる。
 御大家となればなおのこと。実は既に夫が居ります、てな話になりますと、少々角がたちますでな。
 …ふむ。
 で、お樹里はん。おまはんの気持ちは、どないですかな?」


「ウチ、今の人と別れる気、これっぽちも、ございません!
 別れぇ言われたら、ウチの人と名古屋なっと東京なっと2人で暮らします!
 そうですわなあ、着物やら帯やら簪やら売ったかて、まあ1年や2年は不自由はしませんやろ、売るモン売ってしもたとて、大阪ばかりに日が照るのやなし、東京なっと行って一旗あげよやおまへんか、お天道さんと米の飯はついて回る申しますやろ、旅費もウチが三味線習てるさかい一丁持ちましてな、ウチのひとに置手拭いしてもろて、街道筋、人さんの軒下立って、シャンシャンシャン ♪エ〜」
「また踊りだしよった…ようペラペラしゃべるやっちゃなあ、座んなはれ!ちゅうてんねん。んまに。
 ま、よろし。
 おまはんがそこまで意を決してなさるなら、お2人でお暮らしになるのも、これもまた運命(さだ)め。
 時の流れが和らげるものもおまっさかいな。
 よろし。拙僧に一計がおます。
 ただし!駆け落ちやさかいな、もうしばらくは家へ戻れぬ覚悟は決めなされ。よろしか?」
「なんぞ、ございますか!」


「ここにな。薬がおます。」
「はあ。ございますな。」
「これはな、仮死の薬と申しましてな。」
「はあ、羊羹かカステラみたいなもんですやろか。」
「そのカシと違う。」
「北浜やら堂島やら。」
「そのカシともちゃう。どない言うたら分かるかな、この娘は、んまに…。
 つまり、毒やな。死ぬ薬や。」
「これで2人で心中せえと?それは殺生ですわ!やっぱ、ぼんさんはぼんさんや、すぐ商売っ気出っしょる、そりゃ葬式一度に2つ出れば儲かりますわいな。」
「そない物言いがあるかい。最後まで聞きなされ!
 この薬はな、ひと粒飲むと1日だけ死んだよになる妙薬でございましてな。」
「はあ」
「これをふた粒ほど飲んでですな、おまはん、死んだことになさい。
 その間に、ご亭主へはあんじょう言うておきまっさかいな。
 おまはん亡くなったら、あれもこれもすべてご破談ですやろ。
 葬式済まし、おまはん息吹き返し、事のいきさつ心得たぁるご亭主殿と、しばらくお2人でひっそりとお暮らしなさい。時期見て、ご両家には拙僧より事の次第をお伝え申し上げましょう。
 そこはそれ人の情、家にこそ戻れなんだか知らんが、どこぞできちんと暮らしていると分かれば、ご両家ご両親の気の持ちようとてお違いあそばしましょう、おまはんらの夫婦仲を認めてくださる日もあろうて。」
「あ!な〜るほど。
 いや、やっぱ、物は尋ねてみるもんでございますわなぁ。
 得心いたしました。
 では、こちら、頂戴してまいります。ではまた、ウチの嘘の葬式の日にお会いいたしましょ。
 さいなら。」
「こらこら!嘘の葬式てな物言いがあるかい!
 あんじょうしなはれや!」

てな、お馴染みの古い一席でございます。
2006.05.13初出

おなじみの一席(1)

西暦2199年。近畿地方は東京星人からの度重なる遊星爆弾攻撃を受け、ズボラな抵抗空しく、もはや絶滅の危機に瀕していた。
いっぽうその頃、丸の内からの使者サーヤは自らの命を賭け、三菱コスモクリーナー「風神」をとりに来いとの、いかにも本社直命らしい傲慢なメッセージを届けに来たのだった。


近畿二府四県のスカタンどもが大してありもせん知恵むりやり絞り出し、ようやく昔広島のほうであつらえてもろたデカい軍艦あったやろ、勿体ないさかい、あれサルベージして使こたれリサイクルいうやっちゃ地球に優しうてよろしやんか、せやせやてな気楽な話になった。
急げヤマト!ヤマトよ急げ!関西滅亡まで あと362日!…別に滅んでも、かましませんねんけどな。


「船頭はん、船頭はん。ぼちぼち、船、出しとくんなはれ」
「へいへい。よろしか。ほな、出しまっせ。うんとしょい!」(どんどん)
船頭さん、三軒半赤樫の櫂を1本どぼぉんと放りこみますと、どぶんちょぼちょぼ どぶんちょぼちょぼ 船はふわりふわりと空に浮いて参ります。
充分浮きますともう櫂では届きません、櫓に変わります。
供には櫓突く、櫓には櫓穴、茶臼へコトンとはめこんで、滑らんよう切り水の一杯もふっかけまして、クルッと肩を脱ぎますと陽に焼け真っ黒け、赤松を2つに割ったよな船頭さん、腕によりかけ漕ぎ出した「やあ、うんとせい!」
 キュイーン キュイーン


「しかし何なんだんな。ええ日和になりましたなあ」
「ええ日和もなにも、星しかあれへんがな」
「せやさかい、星のよう見える、ええ日和」
「しょうむないこと言うてんでないで、古やん。
 わいら、関西の運命!てなもん背たろてまんねんで」
「はあ…さよか」
「わい、この船乗るとき、せんど罵られたわ“わしら置いておのれらだけ、ケツ割りよる腹づもりやろ!われ!”てなもんや。
 わざわざなんやいう掃除機取りに行ったるのに、なんでこないボロクソ言われなあかんねん」
「せや。わいもや。
 そんなモン、日本橋の五階あたりでバチモン買うてきたかて、ええんちゃうの?思うねんけどな。要は放射能ちゅうモン吸うたらええんとちゃうん?」
「なんや東京の掃除機はまた違うらしわ」
「はあ…さよか」


わいわい言うておりますうちに、船はどんどんどんどん進んでまいります。
船天井一面にございますメッシュ入りフルスクリーンに、ひょいと敵の総統の顔がどん!と表れまして。


「ふ、ふ、ふ。ヤマトの諸君。また会えて、嬉しいよ…」
「あ!よう分かったな。わい、王子の生まれだんねん」
「あほ。おどれの生まれ処言うてんと違うがな。この船の名前十把ひとからげで、あない呼びくさりよるねん」
「だれやの?この血色悪いおっさん?肺病でも患ぉうてんのん?」
「知らんがな。毛ぇ真っ金々に染めたぁるさかい、ヤンキーかなんかとちゃうか?
 ええ歳こいたおっさんの出で立ちとちゃうで。
 どうせまともなスジのモンやないわ」
「ああ!ごちゃごちゃ、うるさい!私の話を聞け!
 これだから関西モンは下等で愚劣で、どうも虫が好かないのだ」
「ちいと声がええから思て、エラそに言いなや…ぼそ」
「畠山桃内に、ちょっと似てへん?声?」
「あー!似てる!似てる!そっくりやわ」
「うるせー!四の五の言わず、私の話を聞けえええ!
 …けほん。こほん…
 わたしの名はデスラー」
「長州力やスペル・デルフィンみたいなモンかいな?」
「なんやよーわからんけど、似たよなモンちゃうか?」


わあわあ言うております、お馴染みの「大和船」の一席でございます。
2006.05.10初出

さながら小さなお笑い博覧会(3)

(前話はこちら)
  (インタビューイ)――笑いとは何かという定義は?
米朝:そら定義できまへんで(笑)。あるいは、20も30も答えがあるっていうか。
筒井:生理的には自我の崩壊だけど。簡単に二元論にして、「楽器か武器か」という議論もできる。笑いによって人を楽しませるのか、社会風刺や文明批評や世相への警鐘なのか。SFもそう言われていた時期がありました。いろんな分類のしかたがある。ベルグソンの分類は変だけどね(笑)。偉い人がバナナの皮で溝ってひっくり返るのが面白いとかね(笑)。そんなのギャグとしては陳腐ですよ。あるいは自分より劣った人を見て笑うとかね。井上ひさしが言ってましたけど、「そしたらミス・ユニバースなんか、他の女の人を見るたびに大笑いしなくちゃいけない」(笑)。
  (インタビューイ)――師匠が笑えるパターンは?
米朝:それは芸ではないでしょうね。子供がいたいけなことを言ったというて笑うこともあるしね。微笑ましいというのとまた全然違う意味の笑いもあるやろしね。
筒井:女連中が実にくだらんことで笑う。
米朝:テレビでね。
筒井:テレビでも笑うけど、もっと日常的な、ご飯がちょっと焦げたとかね(笑)。ちっともおかしくない。日本人はよく人の悪口で笑う。「あいつは馬鹿だ」と言うだけで笑う。ギャグになってない、傷つけるための笑い。あれもおかしくない。
米朝:笑いにしやすい人間と、笑うと何か罪を感じる人間がいる(笑)。その人のことを笑いの種にしたとき皆が喜んで、笑うのが当たり前みたいにして笑われる人もあればね(笑)。
筒井:笑いの種にしても面白くない人もいるし、本当は笑いの種にしたら目茶苦茶面白いんだけども、だからこそ皆黙っている(笑)、「これだけは言うたらあかん」という人がいる(笑)。
それとまあ、バーなんかで、重役さんたちがワーッと笑ってるのはシモネタ。実に即物的でくだらん。酒落た艶笑噺ならいいけど。米朝師匠の大昔のLP「いろはにほへと」、2枚とも持ってますよ。
米朝:ああ−(笑)。あれ、カセットかCDにして、今でもちょいちょい売れてる。
筒井:あれは子供のくせに、息子がずうっと好きでね。もちろん米朝さんの全集持ってますからそれもずっと聞いてましたけど。今日お目にかかる言うたら羨ましがってね(笑)。
米朝:あんなん喜んでるいうたら、たいしたもんや(笑)。けど、わたしらも、あんなバレ噺は中学校の1、2年生でわかっていた。
筒井:今の子はわかってますよ。多少古典的なことであってもね。そういえば昔、師匠に戴いた子供向けの「落語と私」が、今、古書店でえらい値あがりしてますよ。
米朝:また値がつき出したんかいな。
筒井:あれと同じシリーズでぼくの書いた「SF教室」。あれも値あがりしてます。
ぼくのでいちばん値あがりしてるのは、昔書いた童話で「地球はおおさわぎ」。これはアホな話でねえ。
アシモフという人が書いたシリコニーという鉱物の生命体。ぼくの話やと、これが宇宙からやってくる。鉱物でできた銅像やら人形やらを見て、動けないのは可哀想、全部動けるようにしてやろうというので、いちばん最初は上野の山の西郷さんやったかな、歩き出す。床の間の人形とか、みんな動き出す(笑)。
米朝:魂を入れたんやな(笑)。
筒井:これで発狂する人も出る(笑)。自由の女神がフランスヘ新しいファッションを見に行く言うて大西洋を泳ぎ出す。最後は奈良の大仏が、鎌倉の大仏に会う言うて歩き出す。これを聞いた鎌倉の大仏が迎えに行く。途中、浜松あたりで逢うて立ち話をしてるときに、シリコニーが宇宙へ帰ってしまうので、大仏さん二人がとうとう立ち仏になってしまう。
米朝:立ち仏。あははははは。
筒井:これに、この間亡くなった横山隆一さんが絵を描いてくれた。
米朝:そりや大変なもんやな。
筒井:えらい値があがったけど、こっちにはもう関係ない(笑)。
   :
   :
   :
筒井:最後の幇間と言われた悠玄亭玉介さん、何度かお目にかかってるんだけど、亡くなりましたね。あの人は、落語との接点というのは、どこいら辺に‥‥。
米朝:あの人は声色屋――いわゆる声帯模写やからねえ。
筒井:最後は「師匠」「師匠」って言われて‥‥。
米朝:あの人は一応幇間で、戦時中、花柳界がなくなったんで、声色の芸人として寄席へ出ていた。踊りますからね。踊って高座をつとめていた。花柳界が復活したんで、またあっちに戻った。あの人は、屏風を使うた芸やとか‥‥。
筒井:そうそう。展風の向こうにいる若旦那に呼ばれた幇間が、乞われて尻を貸すという芸(笑)。それからお座敷で、目の前に座って、羽織の紐の結び方10種類くらいみごとにやって見せてくれた。ああいう芸もあるんですね。ぼくはやっと幇間という人に間に合った。
それからあれは、幇間やったかな、噺家かな、祝い事のあるお得意さんの家に自分を荷造りして箱詰めにして送り届けさせた。
米朝:それ、聞いたことある。
筒井:2日ほどでっせ、箱の中におったの(笑)。それで「おめでとうございます」言うて箱の中から(笑)。びっくりしますわな(笑)。あれは郵便法違反でしょ?
米朝:そら違反や(笑)。
筒井:あと、タ立で雷雨があったあと、虎の皮の褌しめて雷の格好して‥‥(笑)。
米朝:それは俄の本に書いてあるんですよ。昔の俄はこんなに粋な、風流なもんであったという‥‥。夕立のあと雷さんの格好して、「ただいまはお騒がせいたしました」言うて近所を挨拶してまわる(笑)。
もうひとつ俄の最高の芸として言われてるのは、俄屋台の上に乗ってやってきて、「毎年毎年俄をやって、今年も何か傑作をと考えたんですがどうしてもできません。今年は勘弁して下さい。来年は必ず傑作を持ってまいります」と言うと、鬼がうしろで「うがはははははは」(笑)。実におもろい、こういうのが本当の俄であるとね。近ごろのは拵えごと過ぎて面白うないとかね、書いてあるんです。
俄にも傑作なんがあるな。嫁入り屋という商売があって、娘が嫁入りして5日目ぐらいに、「いっぺん、ちょっと帰らしてくれ」言うて帰る。「なんやかや理屈つけたら3日ぐらい居れるから、そんならどこそこへ嫁に行け」言うて行かす(笑)。支度金を取ってな(笑)。いつも4、5軒に婿さんがおる(笑)。
ようあんな馬鹿馬鹿しいこと考えた(笑)。俄なあ。もう一回読みなおしてみようかな。小咄やなんかも、たまにひっくり返して見ると面白いのがありますよ。やはり天保ぐらいからあとはずっと味の悪いものになっていってね。文化ぐらいはまだよろしいわ。味が違うな。
一日働いて日当貰うて帰ってきて、小半酒――二合五勺――買うてきて、肴、なんか店屋にあるもん買うてきて、最後の頼みの綱、これを、と言うてるときに猫が肴を狙うてきたんで、ヤッ、と追う拍子に徳利を倒して、ゾロゾロゾロッ、と畳に酒が‥‥。「ああ、おれほど不幸せな者がこの世にあろうか。去年は嬶を死なせたし‥‥」(笑)。女房の死と二合五勺の酒が同価値なんや(笑)。天保になると、こんな小咄はまず出てきまへんわ。もっともっとあざとい。
   (インタビューイ)――それは何のマクラに?
米朝:これはマクラには使えん。これはもう大変なもんで、人間というもんを描いてるよ。
筒井:目の前のことやからね(笑)。ぼくは自分の方が長生きするつもりで、女房はまた自分の方が長生きするつもりで、それで二人で「葬式のときは」とか話してるうちに、どっちの葬式や言うて、いつも喧嘩になる(笑)。
出版社にはそれぞれ、葬式係という人がいて、文藝春秋は、昔だったら樋口さんとか、決まってる。作家が亡くなったら飛んで来て、何から何まで全部やってくれるのね。
米朝:おるんやな。
筒井:その人が一度家に来て、ぼくの葬式のときはという話になったらね、立ちあがって、「そのときはここの、この障子をはずして」とか言うて、障子をはずしはじめた(笑)。「やめてくれ」言うたけどね(笑)。
女房がよく威張りよるんですわ。本当はぼくより9つ下やねんけどね、10年ってごまかして「10年も年下の若い奥さん貰うて何言うてるの」。で、「何を言うか。10年ぐらいの違いは、2500年も経てば」(笑)。
米朝:そうや。大した違いではない(笑)。





ああ!早くこういう対談がオンデマンド放映され、しかも話題に出てくるさまざまな芸事についてはサブ画面で脚注表示される、そんな表示技術が普及してほしいなあ。
ここまで2005.07.16初出



2005/07/17 00:51 投稿者:詰めにくい
これ,面白いですよね。最初新聞に載っておもしろかったので,本になったときに本屋で買おうとおもって手にとって,そのまま一気に立ち読みしました。
筒井さんはそうでもないけど,米朝さんは米朝さんの声で聞こえてきます。
「おるんやな」とか。

ところで米朝さんの対談本で,上岡龍太郎さんとのやつはどうですか?


2005/07/17 11:47 投稿者:Donald Mac
『昭和上方漫才』ですね。こちらも面白かったです。が、ダイラケやいとこいなど、演芸寄りのハナシが多く、ついてゆけない内容があったのも正直な感想です。おふたりとも演芸一本槍ですからね、楽屋話や演芸についての眼が厳しくなるのもトーゼンなことで。
詰めにくいさんの1/33ぐらいしか上方芸能の知識ストックのないワタクシなんぞは戎橋松竹・歌舞伎地下演芸場・京洛劇場あたりの話は、ただ「へー!そうなのー!」を連発する内容でした。面白がる以前のレベル。
『昭和上方漫才』は上方芸能、殊に漫才ににお詳しいかた向けの本で、ちょっと全国区発信にするには、濃ゆいかな、と。

かたやこちらの筒井康隆さんのほうは、仕事畑が違うところもあって比較的ビギナーにでもわかるようネタのフィールドを広めにとってあり、このサイトのように「ま、面白けりゃ、割と何でもありじゃないの?よかったら、どうぞ」には向きの本かな、と判断し、ご紹介した次第です。
詰めにくいさんがおっしゃるように、読むのが早いかたなら20〜30分ぐらいで読めちゃうんですよね、この本。脚注とかもなんだかざくっと説明してあるだけで、てんで愛想ないし。
でもさすが朝日新聞やな、と思ったのは、エディ・キャンターのや二代目小文治の踊っている写真、それに『家光と彦左』のスチールが掲載されているところ。意外にこういうのって、ありそうで探しにくいです。


2005/07/18 06:14 投稿者:詰めにくい
なるほど。古い演芸話は私も実物を見たことがない人が多くて,名前だけ見て想像するしかないような人が多いんですが,結構それはそれで楽しいです。まあ実際に録音とかを聞いてしまうとなんてことはないのかもしれませんが,芸談の中では綺羅星のごとき芸人さんたちですからね。幸世・夢若なんて上岡さんや米朝さんの古い演芸の話にしょっちゅう出てくるんで,一度も見たことないのに,知っているような気になってしまいます。


2005/07/18 12:47 投稿者:Donald Mac
ははは、確かに。幸世・夢若は見たような気になりますね。
それにもうひとつ「漫才」については、なんとなく私の中でひっかかってることがあって。
というのも、われわれの時代はと申しますと(故文枝師匠の声で読んでね)、島田洋七や島田紳介の“スーパー猛スピードしゃべくり”を思春期前後に原体験しています、上岡さんや米朝師匠が「吉本の若手」でひとくくりしちゃってる人たちね。それまでにもカウス・ボタン、巨人・阪神とか割に早口化の傾向はあったけれど、まだ活舌がしっかりしていて聞き取れた。ところがB&Bや紳介竜介ときたら、もう口角泡とばし汗だくでしゃべり飛ばした。活舌もへったくれもあったもんじゃない。で、その早口ネタの一言一句を聞き逃すまいとするように、われわれは凝視してかれらのしゃべくりを見て笑った。

B&B


紳介竜介(音声のみ)

おなじ頃、東京漫才ではツービートとか星セント・ルイスとか、やっぱりとにかくめちゃくちゃな早さで次々ネタ繰り出したり活舌悪いけど面白いしゃべりをする人たちが、世に出てきた。あとで「漫才ブーム」と名付けられた時代ですな。

ツービート

当時、小林信彦なんかは「こんなの、ただの若者のしゃべくり、そのままじゃないか!」とかクサしていたように覚えています(うろ覚えなので、違ってたらすいません)。また当時上岡さんと米朝師匠はすでにその時舞台芸の同じ線上にいらっしゃったから「影響受けた」「おもろかった」とは、まあ言わないでしょう。それがこの本では、ちょっと不満なんです。

漫才ブームがひとしきり終わり、しばらくいたしますと、今度「2丁目劇場」が出てまいりますな(米朝師匠の声で読んでね)。
これは前のスーパー早口とは打って代わって「間」の面白さがとても映えた。2丁目劇場や「4時ですよ〜だ」時代のダウンタウンの面白さは、会話間の「間」のとり具合が絶妙ぶりだったと思います(今でも勿論!ただ、テレビ番組編成の都合でしょうか、妙に端折って編集されてしまっていますね。)
私には、一番スローな間でおかしかったのはメンバメイ・コボルスミ。一番絶妙な間のとりかたが面白かったのは東野・今田とダウンタウンでやっていた一連のコントでした。上岡さんと米朝師匠の対談には、これも抜けてる。当たり前ですけど。

じゃ、今度のお笑いブームは?というと、現在進行形なので、これ!という評価をするにはまだ早いんですが、2つ、これまでと違う感じを受けています。
ひとつは、コントものに秀逸なものが割に多いように思います。それまで吉本新喜劇がセット組んで大きな舞台をわざわざ作りやっていたくだらないルーティンネタを、収録スタジオのコンパクトな小道具で演るものに、面白いものが多い。アンジャッシュ、インスタント・ジョンソンあたりを指してるんですが。

もうひとつは、そういうコンパクトな芝居だからこそ味があるのに、わざわざ後ろに書割つけたり、ネタどころにフリップいれたりと、テレビ屋さん側がわざわざ芸を殺すような演出をしているところです。80年代の漫才ブームは間違いなくテレビ屋さんとラジオ屋さんが大きくしてくれた演芸ムーブメントでしたが、今回のお笑いブームは、火付け役になったNHK「オンエアバトル」は除くとしても、以降の各局のバラエティ番組はただ若手芸人を殺すだけの演出しかなされていないように、私には見えます。テレビ制作サイドが保守党に回っているというのも、放送局というのが古い情報媒体と化したひとつの表れなのかもしれません。

アンジャッシュ

2005/07/22 03:00 投稿者:詰めにくい
 米朝・上岡がダウンタウン以降のお笑いを語るのは,読んでみたかった気もしますが,実のところそんなに惜しいとは思わないんですよ。なぜかというと,自分で見て知ってるから。逆にああいうふるい人の芸談は,ビデオや録音で残ってない芸人さんたちの芸を記録に残すというところに価値があるかなと思っています。
 現在のお笑いブームはレベルが高いですね。80年代のブームのときも,ダウンタウン以下何組かが売れてたいたころも,結局たくさん出ても面白いのは意外と少なかったように思いますが,今はどれも面白いというのがすごいと思います。「芸を殺すような演出」は全く同感で,間を殺すフリップ,見る人の想像力を限定してしまう書割などは,芸人のレベルが上がっているのにテレビの側はそれに全然ついていけてない例だと思います。


2005/07/23 21:27 投稿者:Donald Mac
もう随分と昔の話になりますが。
「落語という話芸を、テレビが殺したんや」てな論調が喧伝された時分がありました。70年代ぐらいではなかったかな?と思います。で、その根拠というのが「テレビで落語をやられると、寄席に客が来なくなる」と「お題をフリップに入れるなんて、野暮の極みや」でありました。
まあ確かにテレビのせいで定席小屋の廃業に拍車がかかったのは事実そうなんでしょうが、元々定席小屋なんて減っていたし、別にテレビ放送のせいじゃなかったとワタクシは思っています。
で、結果的にはどうなったかというと「バラエティ番組の仕切やレポーターで、若手噺家のアルバイトがてらの仕事が増えた」ということで、噺家にとってはプラスになりました。それで落語が廃れるということも別になかった。落語という話芸を全国に広め、落語人口を増やし、結果オーライとなったように思います。

テレビで落語が放映されるようになり困ったことも確かにありまして。
●いわゆる「饅頭こわい」の類の東京でいう「二ツ目ばなし」あたりが落語っつーもんなんだな、と地方のあまり寄席というものを知らない人たちに定着してしまった
●寄席に来てくれる若い人が「今の話、なんていうの?」とひそひそ尋ね合うようになった(題名が出ないと落ち着かないらしい。その後寄席には「パンフレット」なる珍妙なものが事前配布されるようになります)
●江戸落語=落語だと思ってしまう人口が増えた
●「大喜利」という演芸を陳腐化させた

その後テレビ自体があまり落語を放映しなくなりましたが、若手噺家のタレント副業は残りました。今回の若手のさまざまなお笑い芸のブームも、テレビのせいで消費され尽くしてしまう芸人さんと、テレビ出演はそれはそれとしてフィールドを広げる芸人さんに分かれるのでしょうね。
しょせん「タダで見れるモン」の価値はその程度、ということでしょうかねえ。

さながら小さなお笑い博覧会(2)

(前話はこちら)
筒井:あと、SF的な歌舞伎というと。
米朝:「白浪五人男」でも、突如としていちばんラストに青砥藤網というのが出てくる。あのゼニを拾うているところが出てくるんです。あんなもん、馬鹿馬鹿しさの極みたいなもんで(笑)。
筒井:あと、科学的なトリックはというと、「毛抜」というのがあって、(笑)、エレキでもって髪の毛を(笑)。科学的なものというとその程度で、ユーモアの面で言えばぼくのSFに近いものが幾つかある。ぼくはあれは前進座で見たんです。長十郎さんの。あんな酒落たものをやっていた時代があったんですね。
米朝:河原崎長十郎は、血筋からいえば成田屋の本家の血筋により近いですから、たとえば團十郎が著作権料を要求しても、払わなんだやろと思うんだ。市川家の宗家よりおれの方が血が濃いんだと。
   :
   :
   :
筒井:東京へ行ってしもうた、例えば雁治郎さんね。前の扇雀さん。扇雀と翫雀いう息子二人おるんやけど、ずっと東京育ちやから大阪弁できない。
米朝:今、翫雀はこっちに住んでますけどね。向こうの芝居にも出てるけどな。この間、ざこばと芝居をやったりしたんやけど。
筒井:だいぶ関西弁できるようになりましたか。
米朝:一生懸命勉強するもんやからね。楽屋でも稽古に使える人が周囲におるもんやさかい、台本に書いてある科白は言える。アドリブができない。アドリブ入れたら途端にあっちの言葉(笑)。
筒井:和事なんかはアドリブが多いから。
米朝:多い。役者によっては台本にないこと言う。前の雁治郎はんなんかは、そういう点はうまかった。面白かった。あの人、たいへんな三枚目やね。
中村成太郎という役者がいたんですよ。もうずいぶん前に死んだけど。この人の息子で中村太郎ちゃんというのが、なかなか達者な役者やった。これが莚蔵というやっぱり若手の役者と、莚蔵・太郎でやっとった。腰元がズラッと居並ぶ、上手のここが莚蔵で、こっちが太郎やった。ズラッと諸侍が居並ぶ。やっぱり莚蔵と太郎。この莚蔵が寿海さんの養子になって、市川雷蔵になったんです。
筒井:ああ。そうでしたか。
米朝:そうなると太郎は面白ないわけです。片方は養子になってバーンとええ役がつく。こっちは相かわらず腰元筆頭と諸侍筆頭でしょう。それで、三べん心中したんです。三度もして、その度ごとに女が死んで、彼は生き残った。
筒井:ええーっ。
米朝:これ、凄いよ。最初のときは皆「そういうこともあるわい」なんて。二回目も、どっちもすぐ病院に運ばれて、女性が死んで彼が助かった。ほたら三回目もやった。もう出てこられないわ。
それからしばらく消息を知りません。そしたら今の雁治郎が、金がかかるけどもういっぺんやろうというんで、映画界に入ってた北上弥太郎を引っ張り出してきて自分の相手役やらせて、役者やめてた太郎を引っ張り出してきて、自分の倅やらを脇に据えて浪花歌舞伎やり出したんですよ、あれ。
それで、どうなってるかいっぺん、太郎ちゃん見たいと。これが「夏祭」の義平次をやったんかな。力弥か何かやるような若衆の顔やったのに、あの憎たらしいおじんの義平次の役をやった。聞いたら、「悪うなかったで。ちゃんとやってたで」「ああ、そうか」と思うてたら、ぽっくり死んだ。今度は心中やなしに死んだ。
三度心中してね、三度とも生き残った。これはもう出てこれんわ。世の中にね。
筒井:凄いですね。しかしそれは何かの罪に問われんのかいな。自殺関与の罪とか。
米朝:そんな人も世の中にはあるんですよ。ほんまに死に損ないいう奴やな言うて、皆言いよったよ。
   (インタビューイ)――どうしても死ねん人もおるのに。
米朝:首吊ったら縄が切れるとか(笑)。
「自殺悲願」所収『農協月へ行く』角川書店1973年刊筒井:「自殺悲願」いう短篇でぼく、それ書きましたよ。鴨居から紐かけて首吊ったら、家が壊れるの(笑)。
米朝:何か読んだような気がするで、それ。
筒井:ビルから飛び降り自殺しよう思うて、窓から飛び降りたら、下で受けとるんやね(笑)。もっと上の階が火事で、その下から飛び降りた(笑)。何かそんなのを仰山書いたなあ(笑)。10ぐらい書いた。
米朝:絶対死なれへん男(笑)。
筒井:絶対死なれへんの。その理由が、本を出してくれ言うたら、誰それ先生が死んで本がどっと売れました。あなたも死ねば売れます。で、家族のために死のうかと思うて、それで(笑)。どうしても死ねない。線路へ横たわったら汽車が脱線するとか‥‥(笑)。
米朝:しかし死なれへん理由にも限度がおまっせ。それを10も重ねるちうのはやっぱり偉いもんやなあ。
筒井:いや。10はなかったかもしれん。しょうむないのもあります(笑)。ガス自殺しよう思うたら工事でガスが止まってる(笑)。テレビ・ドラマになって、山崎努さんがやってくれた。
米朝:ところで、ご自分の役者としての体験はどうでした?面白かった?
筒井:これは面白いというか、たいへんな勉強になるんですね。もしかしたら、小説書いたりするよりも、芸術家としてのレベルとか資質とかは高いもんが要求されるんやないかと、最近思いはじめた。
米朝:テレビの大河ドラマの「北条時宗」でやられた無学祖元なんかは拝見しましたがね(笑)。
筒井:あれはまあ‥‥(笑)。
米朝:ちょい役やけどね。そうやなしに、自分で本を書いて、自作、自演出、主役とか。
筒井:いや。せいぜい自作自演ですね。演出の才能はどうもないみたいで、やっぱり演技する方が面白い。
米朝:ははあ。
筒井:演技っていうのは、やろうと思えば相当高度な資質とか勉強とかが要求されるんですね。ハンス・ゲオルク・ガダマーという哲学者なんですが、芸術論やってる。だいぶ前に死なはったと思うてたら、ついこの間、102歳で亡くなった。
米朝:ほう。
筒井:この人の全集、2巻目の文学論だけ翻訳されてるんですが、翻訳されてない1巻目の最初が演技論らしいんですね。演技というものを高く見ていたんですね。
演技というのが高度なもんだということがわかってきてね。若いときに芝居してても、自分を見せびらかしたり、自己顕示欲とか、そんなんばっかりやけれども、歳とってきたらそんなもんなくなりますからね。本当にやろうとしたら、これは難しい。怖くなってくる。でも、お蔭様でやる芝居、皆好評で、いつも褒めていただいております。
米朝:わたしはナマを見たことがないんで、申し訳ない。
筒井:いやいや。見ないでいいです(笑)。
  (インタビューイ)――お若い頃は新聞に「西の筒井康隆、束の仲谷昇」と書かれたこともあったとか。
筒井:昔、大阪に青猫座という劇団がありまして、そこにおったんですね。よく話すことですが、芝居ができなくなって――というのは、関西訛りがあるからで、その頃は厳しかったんですよ。早稲田の演劇学科に行きたかったけれど、どうせこの訛りはなおらないと思って、仕方ないからあきらめて、小説を書き出した。
だから初期の作品は、主人公の「おれ」というのが――たいていひどい目に遭うんだけど(笑)、ぼく自身が演技しているつもりで活躍する。役者として駄目だったから、小説の上で演技してるんだ、なんてことを言ってましたけど。
米朝:やっぱり、やりたかったんやな、芝居が(笑)。



ああ!もう!ホントは全文引用したいんですが、それをしてしまうと朝日新聞社さんが儲かりません。読みたければ、買いなさい。なぜ命令形。
もう1箇所だけ、美味しいトコをサービス引用します。
[つづく]

さながら小さなお笑い博覧会(1)

調べてみると、2003年の国内ベストセラーは『バカの壁』『世界の中心で愛を叫ぶ』『トリビアの泉』なんだそうです。これら3作が愚作なんぞと決して申しませんが、2003年はもっと面白い本が発刊されたではないか!なぜ売れぬ!と、ワタクシは声を大にし申し上げたい。その書名は『対談 笑いの世界』。朝日新聞社刊。著者は、というと

 桂米朝・筒井康隆

もう、これは「どうだ!このラインナップ揃えてやったぞ!」といわんばかりでしかも出版動機が「寿勲記念」でつまりはたいへん朝日新聞的出版物ですが、それでも

 桂米朝・筒井康隆

のダブルネームに反応しちまうのは悔しいかな笑いネタ好きの業でございまして、とにもかくにもこのサイトをご覧いただき「面白いな」と感じていただいている諸兄は、とりあえずこの本を読みなさい。なぜ命令形。
どうせすぐこのテの本は絶版になるから、読めるうちに読んでおくことをおすすめします。

内容は、というと、対談記録なので、ひとつひとつのコンテンツについてさほど詳しく熱く語っているワケではありません。
が、ご承知のとおり、博覧強記のうえ勉強熱心で知られるおふたりのこと、およそ70年代までに国内にはいってきたネタについては、ひととおり語っておられます。

おふたりの持ち芸である落語とSF話はもちろん、漫才、講談、浄瑠璃、座敷芸、国内で見ることのできたスラプスティック映画、さらには平静より“芝居っ気”について口にすることの多いおふたりの芝居話のあたりの面白さはひときわ。無断転載ですが、少しご紹介いたします。
 ※関係者のかたからご指摘があった場合には撤去いたします。予めご了承ください。




米朝:SF的な「天竺徳兵衛」という芝居がありますわな。徳兵衛が誰かを仲間に引きずり込もうというので、道頓堀の料亭へ連れ込んで、そこで飲んだりいろいろやっているうちに、「結局それは海賊やないか」「今、鎖国をしてしもうたから、鎖国さえせなんだら立派な商人で、海賊ではない」「やっぱりやめる。わしは帰る」「帰れるもんなら帰ってみなさい」と言うて、障子をパッと開ける。波音という太鼓がドドンドーンと。大海の真ん中なんや。道頓堀の料亭やと思うてたんが実は船なんや(笑)。
筒井:凄いなあ。
米朝:大海へ出てしもうて、もう帰られへん(笑)。それでカンボジアかどっかへ連れて行かれる(笑)。あの発想は驚いたな。
筒井:猿之助さんの「天竺徳兵衛」には、その場面あったかなあ。実はさっきの「破天荒鳴門渦潮」を昔羽屋さんでという話もあったんですが、ぼくは澤潟屋さんに宙乗りをやってほしかったんで、宙乗りの場面を書いたんですよ。雷獣を捕まえるんです。雷獣というのは雷とまた違って、雷獣というのがいる。
米朝:江戸時代に描かれたものに雷獣の絵というのが残ってる。
筒井:それはどんなのですか。
米朝:江戸時代の随筆本を集めた、「日本随筆大成」というようなものが昭和の初期に全集として出ていて。
筒井:それは絵ではなくて。
米朝:絵も入っている。
筒井:狛大さんとか獅子とかみたいなやつ。
米朝:そうそう。そんな感じです。ちゃんと、それを観察して写生したと書いてあるんです(笑)。
筒井:写生ですか(笑)。
米朝:雷獣を捕まえた。それでこんなもん滅多に、というんで取り押さえているうちに死んでしもうた。
   (インタビューイ)――本気でそう思っていたんですか、その人は。
米朝:まじめに書いてある(笑)。年月日も、どこそこに大落雷があったと。それで、それを写生したと。その筆者の名前が書いてあって、そのまんますぐ死んでしもうたと。そこまで書いてある。
筒井:あのころの人は、嘘を書くときでも、わざと真面目に書く人が多かった(笑)。
米朝:ほんとに雷獣やと信じてたかもわからん(笑)。
筒井:かもわからん。で、その雷獣を捕まえて、天の神さんに雨降らすよう説得しに行くから連れて行けというので、そこから宙乗りをやる。天へ行ったら雨の神と風の神がいる。「風の神さん、なんや具合悪そうやな」「風邪ひいてまんねんわ」(笑)。そんなギャグいっぱい入れたんやけど、あきませんなあ。装置も衣装も人件費も、高うつきすぎる。
米朝:どこの劇場でやるかやなあ。役者が揃いまへんなあ。歌舞伎はそれが大変なんですよ。松竹座さんも満員になってくれなんだらあかん。東京から皆呼ぶ。皆ホテルヘ泊めて、うんと高うつくんですな。新喜劇がよかったのは全部関西の役者で、宿泊費なんかいらんからね。客さえ来てくれたら儲かった。今はもう、こっちの役者なんかおらんからなあ。ちっちゃい劇団は今仰山できてるんやけどなあ。あの中から1人スターが出えへんかいなあ。スターができると東京へ連れて行かれてしまう。
筒井:そうですね。漫才、落語界もそうですよね。
米朝:吉本(興業)も東京に色気を見せて、テレビとか、マスコミ関係はある程度押さえたんやけども、やはり育たんのやな。お客が違うしね。
[つづく]

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