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どれほど有用性のあるリンク集かわかりませんが、SEOの足しぐらいには機能してくれるといいなあ。



 週刊WEBマガジンSAKANAFISH : 毎週末に延々更新され続け幾星霜。もはや作者も全貌を把握していない膨大なギャグマンガとテキスト群。
 ヤンキー風俗研究会 : 賛助会員やってました。活動再開未定。ヤンキー現象もだいぶ散逸収束しちゃったしね。
 FLIES :

 やゆよ記念財団 :祝・ブログ化。これで新着ネタもRSS取得で見逃すことなくバッチリだね、パパ。どれだけ待ち望んだことか。
虚構新聞さんらの尽力ですっかり定着した「ニュースネタ」。最近はデマネタとかいう不愉快な呼びかたをするらしいです。くたばったらいいのに。
そんなデマ呼ばわりはおろか「嘘ニュース」の呼称すらおぼつかぬ頃から、ずっとずっと高品質ネタを書き溜める不精な仙人然としたやゆよ氏・約20年分の集大成アーカイブ。「ビストロなんやら、でっか?よろしいんと、ちゃいますか」と季節料理の研鑽にいそしみ続ける肥後橋のレストラン・アラスカのような(大阪の大人にしか通じないか?)。

 色物文具専門サイト イロブン : あなたが居なければ。あゞあなたさえ居なければ。文房具はただの文房具で居られたのに。
 ままならねーことこのうえねー
 腹藝春秋
 IYA De GENKAI


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 EuroManga :バンドデシネをコツコツと日本へ商用ベースで紹介し続ける、奇特だがいい仕事しているかたがた。創刊時からしばらくショードバルこと原正人さんがからんでいらっしゃたようなので、知りあいってほどでもないですけど、同好の志てことで、応援リンク。

 Joe Cartoon :その後MondがHappy Tree Friendsでもっと洗練させサウスパーク人気と相俟ってすっかりメジャーな1分野へ育ったこの系統ですが。
前世紀からぐしゃぐしゃswfアニメを飽きもせず作り続けるJoe Cartoon。スタバで浮かれるノマドを「あ、さよか。結構でおすな」と横目に、酸っぱいコーヒーを出し続けるさながらイノダ珈琲のような(京都の大人にしか通じないか?)。
かつてShockwave.comでこのぐっちょんぐっちょんゲームが公式ゲームコンテンツだった時には「なんてネットって自由なんだ!」と感激したモンです。
もうWEBにあんな奔放な時代は二度と来ないよね、きっと。

 FUTURE SHORTS :
 ショートニング :
 音楽方丈記
 十三のいま昔を歩こう :
 わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる :

レジカウンター周辺物販スペース

道楽でやっているような通りはずれの店。
店内レジ周辺に、知り合いのフライヤーやら陶芸小物やらポストカードやらインディーズCDを並べ「よかったら手にとってみてください」風なイヤラシさ漂う、物販陳列コーナーページです。

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文芸評論パスティーシュの見本帳(4)

(前話はこちら)
さんざクサしましたが、パロディやパスティーシュを作ったことのあるかたならば、ネタ本の1冊としてあなたの薬籠へこの本を入れておき、損はありません。「~風評論文」のツボは、およそ網羅しています。「こういう評論家の名前を使い」「だいたいこのあたりを突ついて語れば」それらしく「~風」になる、と、具体的文例をともない把握できます。

つまりわずか800円弱のこれ1冊あれば「所ジョージの世田谷ベース 文体論評論」でも「人生がときめく片づけの魔法 リアリズム解釈」「コンパクトデジタルカメラ OLYMPUS ToughTG-820 付属マニュアルに関するフェミニズム批評」だろうと、パスティーシュネタは、そりゃもう書き飛ばし放題!
さながらデザイナーが配色見本帳を参照しながら意匠制作をするように、文芸評論テキストなぞりの見本帳として参照する価値ある1冊と言えましょう。
しかも本書自ら「ネタの換骨奪胎なんか、外国モノを抜書き翻訳し、ためらわずどんどんやっちゃっていいのよ」と示していただけています。

それでは最後にもうひとつ。
さらに旧世代ご用達・マルクス主義風批評を。これも割によく特長をとらえて書けています。いまだにこんな感じの論旨を垂れ流し続ける初老のおじさまは存外多く、苦笑できますよ。
Photo by Redrave

怪物とは何か
 清教徒革命とフランス革命の共通点は、それらが啓蒙思想を基盤とし、絶対君主制を打ち倒して正義や理性に基づく社会秩序を作り出そうとする試みであり、近代社会の成熟の成果であると言えること、にもかかわらず、結局はさらなる暴虐と無秩序に帰してしまったことである。この現象には、どのようなメカニズムが働いているのだろうか。革命の先導者たちは、旧政体を打倒するために大衆を結集する。しかし、ひとたび決起した群衆は、非理性的な行動に走り出し、その要求は際限なく膨れあがり、すさまじい破壊力と化して新しい秩序を作り出すことを阻む。市民革命が呼び起こした「群集の力」とは、いったん束縛を解くと制御できなくなる「怪物」にほかならなかった。

 フランス革命終結後も続いた混乱状態は、イギリス社会にも深く浸透した。しかもイギリスでは、同時期に産業革命が重なった。新しい技術や幾械が突然現われるとともに、失業者が増大し物価が上昇し、人々の生活ががらりと変わり始めたのである。蒸気機関とか自動紡績機といったものは、人間が作ったものではあっても、多くの人々にとっては、どこから出てきたのか素性の不明な、理解を超えたものであり、これまでとは違う世界の到来の前触れのように思われた。産業革命とは、一般市民にとってまさに「怪物」だったのである。

 他方、産業革命は、産業労働者という新たな階級を形成した。それは、自らの利害が雇用主階級の利害と対立すること意識する集合体であり、いったん結集して集団行動を起こすと、社会を脅かす破壊的な勢力と化す。1810年代には、労働者の集団が工場を襲撃し機械を打ち壊すラッダイト運動をはじめ、次々と暴動が起こり、国による鎮圧が繰り返された。労働者階級とは、支配者層の目には、自らが作りだした「怪物」のように映ったのである。

 『フランケンシュタイン』がこうした歴史のなかに織り込まれた作品であることは、疑問の余地がない。なぜならば、この小説は「怪物」の誕生を描いた物語であり、この恐怖と哀れみの対象である怪物は、新興労働者階級にぴったり符合するからだと、批評家モレッティ(Franco Moretti)は主張する。
たしかに両者は、多くの点で似ている。どちらも人工的に造られたものであること。ばらばらの人間の寄せ集めで、自然な有機体としての統一を欠くこと。フランケンシュタインは、科学と技術の進歩を目指して人造人間を造り、資本主義は、技術革新によって労働者階級を生み出すが、いずれも創造者にとっては破壊的な怪物と化すのである。

 したがって、メアリ・シェリーはフランス革命や資本主義が怪物を生んだということを、告発しようとしているのだというように読める。しかし彼女は、怪物をたんにおぞましい恐怖の対象として描いているだけではなく、怪物への哀れみを読者から引き出そうともしている。怪物とは、言葉を持たず一方的に見られ恐れられる存在であるという一般的概念を打ち破って、メアリ・シェリーは、自らの苦しみを雄弁に語る怪物を創造する。それによって彼女は、怪物に、自らのために語る言葉を持たない労働者たちの代弁をさせているのだと、モンターク(Warren Montag)は言う。作者はおそらく、労働者階級への同情と、ふたたびフランス革命の恐怖が繰り返されることへの不安との間で、揺れ動いていたのであろう。『フランケンシュタイン』は、このジレンマの誓え話として読むことができるのである。

 ちなみに、この作品には、暴力的な怒れる群衆が、怪物による誓え話としてではなく、直接描かれている箇所がある。それは、ジャスティーヌが法廷で「何千人もの傍聴人によって凝視され、ののしりの声を浴びせられる」(第8章)場面である。エリザベスが弁護に立ち被告人の潔白を主張すると、ジャスティーヌの極悪非道な忘恩に対して、「群衆の怒りが狂暴さを新たにして」向けられる。裁判の結果、ジャスティーヌは有罪判決を受け、断頭台で処刑される。この敵意を持った群衆の姿は、ジャコバン的な暴徒のイメージと重なり合う。また、1800年から1820年の時期に、イギリスでは年間700~800件に及ぶ死刑の執行があり、これはイギリス史上ではもっとも高い数値の記録だという。したがって、ジャスティーヌの処刑は、イギリスの動乱期のひとこまを示す場面であるとも言えよう。

闘争としての歴史
 モンタークは、この小説の矛盾点を二つ挙げる。
 第一は、フランケンシュタインの悲劇の中心を占めるはずの怪物創造のプロセスの直接的描写が、テクストから省かれていることである。フランケンシュタインの語りは、「不潔な創造の仕事場」についてのくだりに来ると、話が曖昧になったり脇道に逸れたりして、結局プロセスが描かれないまま、怪物が出来上がった場面へと飛び越える。彼が「解剖室」「屠畜場」と呼ぶ仕事場の具体的な描写はなく、「思い出しただけも、めまいがする」というように、それが再生不可能であることが強調される。
 第二の矛盾点は、作品の背景として近代の産業社会がまったく描かれていないことである。描写されているのは、崇高なアルプスの山々、神秘的な湖、豊かに実った畑といった四季折々の自然ばかりである。フランケンシュタインとクラヴァルが、ロンドンをはじめイギリスの都市を転々と族したときでさえ、工場や産業労働者はまったく描かれていない。つまり、この作品の核心を占める「科学技術」そのものが、テクストから決定的に欠落しているのである。

 これらの矛盾点から浮かび上がってくる歴史性とは、科学技術の進歩が、人間の自由を達成することにはつながらず、それ自体の論理によって動き始め、社会に分裂をもたらし、人間を新たな隷属状態に至らしめたという現象である。フランケンシュタインの人生とは、科学の征服者たろうとして、結局、科学の道具として奴隷と化した人間の経歴にすぎない。現代的なものがいっさい排除された世界を背景として、怪物は、都会・産業・労働者といったものを一身に負って体現しているゆえに、真の怪物性を帯びることになるのである。

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こう眺めてゆくと、文芸批評というのはつくづくマイノリティ視点を要求され続けているのですね。
役立たずな学問と言われ続ける文学研究なんかやっている劣等感からでしょうか?あるいは「自分こそは人と違う」な自尊心を論理武装した結果の、妙にねじれた自己表現でしょうか?
文学研究者の奥底にねっとりと淀み続ける欲求は、少し香ばしい。
面倒くさい人たちですね。

文芸評論パスティーシュの見本帳(3)

(前話はこちら)
さて、もうひと世代前のみなさまが喜びそうなものといえば、「ポストモダン」。
筆者・廣野由美子さんもどうもこの時期に青春の思想を謳歌されたのかたのようで、デコンストラクション周辺の翻訳には、いやに力がはいります。決定不能がどうだの二元論がこうだのと、御託がとても長い。
そういうメインディッシュ部分は本編で味わっていただくとして、ここではさらっとラカニアン「風」精神分析解釈だけを、あっさりと前菜のごとくご案内しておきます。

ラカニアン風解釈
デイヴィッド・コリングズ(David Collings)は、フランケンシュタインの物語を、エディプス・コンプレックスを順調に乗り越えることのできなかった男の話として読む。フランケンシュタインは少年のころから、記号体系に組み込まれる学問、たとえば言語学や政治などにはまったく興味を示さず、世界の物理的な秘密を探ることにもっぱら関心を持ち、魔術的な錬金術にのめりこんでゆく。
母が死んだ直後、その喪失感を解決できないまま大学に進学したフランケンシュタインは、母と一体化する方法を学問研究のなかに求め、出産の実験に取り組むのである。どうしても母を断念できないフランケンシュタインは、母と似た女性エリザべスをその代用とすることもできず、この許嫁との結婚を回避し続ける。

 フランケンシュタインが怪物を造った直後に見た夢は、精神分析的観点から見ると、非常に興味深い。夢のなかでフランケンシュタインは、インゴルシュタットに訪ねてきたエリザべスに会い、彼女を抱きしめるが、それは岨虫の這う母の死体に変わる。悪夢から目覚めると、怪物がじっとフランケンシュタインを見ている。
これは母の代用としてのエリザべスと、母の肉体、そして怪物とが、フランケンシュタインにとって密接につながっていることを暗示する。

 このあとも、月光に照らされた窓から怪物がフランケンシュタインを見ているという場面が、繰り返し描かれる。光る窓は「鏡」を表わし、そこから見つめている怪物は、フランケンシュタイン自身の「鏡像」であると、コリングズは解釈する。怪物は、さながら鏡像段階の幼児のように、にっこり笑いながら口をもぐもぐさせて不明瞭な音声を発している。鏡に映った自分の姿を見ることは、幼児にとって、自分の統一的イメージを獲得する喜ばしい経験でもあるが、フランケンシュタインがそのとき見た鏡像は、バラバラの肉体の寄せ集めとしての自分の姿であった。つまり、エディプス・コンプレックスの克服を拒んで、あくまでも母の肉体の回復を追求し続けたフランケンシュタインは、一般の成長過程を逆行してゆくのであるが、鏡像段階に至っても自我の統一に失敗し、ふたたび根源的喪失感を経験するというジレンマに陥るのである。

 自我の統一の問題は、フランケンシュタインだけではなく、怪物の側からも追求されている。すでに人間の姿を見て知っていた怪物は、初めて水たまりに映った自分の姿を見たとき、あまりの醜悪さに衝撃を受け、自分のイメージと自分とを同一化することができない。しかし怪物は、家族や社会との関係や言語を獲得することによって、記号体系の世界に入ってゆくことを望み、そこから排斥されることに対して、苦悩するのである。
つまり、フランケンシュタインと怪物は、自分の欠落を補うべく、逆方向の道筋を辿ろうとしたのだった。
ええっと...ポストモダンっていうダジャレでして...その...あの...すいません、いろいろと
『批評理論入門』あとがきに拠れば、当初本書は「新・小説神髄」という仮題で進めていたそうです。たぶん刊行直前、坪内逍遥が筆者の枕元に立ち「ええかげんにせえよ」と罵ったのでしょう。
またごていねいにも「なぜ今フランケンシュタインをとりあげるのか」の前口上までついています。元ネタ本がフランケンシュタインで書いていたからじゃん....でも、そうバカ正直に「翻案の元ネタがフランケンシュタインだったので」とは書けないですよね、オトナの事情とかと体面上とか。

いっそ同Case Studies in Contemporary Criticismシリーズの『ドラキュラ』も翻訳・再編集し『モンスター評論理論入門』とするだの、あるいはクノーエーコの『文体練習』を新訳追加し『パスティーシュのいざない---文芸批評Ver.』とでもしたほうが、よほど気が利いていたかと存じます。(つづく)

文芸評論パスティーシュの見本帳(2)

(前話はこちら)
クイアはこんな感じです。我田引水なあの感じをよくつかまえていると思います。
レズビアンを語りたいがために、作者のおかあちゃんまでレズ呼ばわりかよ。
クイアのみならず、「カル・スタ」「ポス・コロ」「フェミ」「新歴史」など、90年~00年代頃、精一杯文学的に背伸びしたみなさまが喜びそうなお品書きは、ひとしきり揃えてあります。この文芸イケアな品揃えぶり!
パクリ元である原書『Frankenstein--Case Studies in Contemporary Criticism』においてカルチュアル・スタディは本家本元イギリス仕込み。例のあの調子で、あちこちつまみ食いでぐだぐだダラダラ、お読みいただく配慮皆無の長文。
ここではカルスタだの読者視点だののうだうだ分はうっちゃり、ポストコロニアル風をご紹介し、最近「風」の文芸批評サンプルとしておきます。
orientalism02.jpg
Photo by ANJOU
『フランケンシュタイン』 におけるオリエンタリズム
『フランケンシュタイン』は、植民地を支配する側の西洋生まれの作家によって書かれた作品である。この作品の大半の登場人物ほヨーロッパ人であるが、怪物がフランケンシュタインに語る話のなかに、トルコ人父娘が登場する。

 怪物の隣に住むド・ラセ一家は、もとはフランスの良家の出で裕福だったが、いまはすっかり財産を失って没落し、ドイツで亡命生活を送っている。その原因は、ひとりのトルコの商人のせいであったとされる。このトルコ人は、なんらかの不当な理由によりパリで囚われの身となり、死刑を宣告される。これに憤りを覚えたフェリックス・ド・ラセーは、囚人の逃亡計画に加担する。トルコ人にはサフィーという美しい娘がいて、フェリックスは監獄を出入りするうち彼女に出会い恋に陥った。トルコ人はこれを利用し、安全な場所に逃れたら娘と結婚させると約束して、フェリックスに助力を請う。ところが、彼らが逃亡に成功したあと、陰謀が発覚してフェリックスの父と妹が捕らえられると、トルコ人はフェリックスを裏切って、故国へ引き揚げてゆく。かたやド・ラセ一家は、父娘が釈放されたあと財産を没収され、一家ともどもフランスから追放されたのだった。
ここから浮かび上がってくるトルコ人のイメージは、民族的偏見のゆえに無実の罪を着せられた犠牲者としての側面と、狡猾な忘恩者としての側面という両面性を持つ。

 では、娘サフィーはどのように描かれているか。彼女は、あとからトルコへ向かうようにという父の指図には従わず、密かに恋人を追ってドイツへ旅立ち、ド・ラセー家に身を寄せる。彼女の亡き母親は、キリスト教徒のアラビア人で、トルコ人の奴隷になったが、美貌によってトルコ商人の目に止まり、結婚したのだった。
つまり、サフィーには半分母親の血が流れていて、母の教化の影響で、その心は完全にキリスト教徒のものだったのである。それゆえサフィーは、「またアジアに帰って、ハーレムの壁の内に閉じこめられ、することといえば幼稚な遊びしか許されないような暮らしに戻るかと思うと、うんざりして」(第14章)、キリスト教徒と結婚し女性の社会的地位が認められる国で生きることに憧れていたのだった。サフィーは東洋人でありながら肯定的に描かれているが、そこにはキリスト教徒であるという西洋的価値が付与されている。彼女はハーレムの壁の内に女性を閉じこめる劣った故国から脱出しようとする女性として位置づけられているのである。ここにも、帝国主義による東洋世界の定型化が、明らかに見て取れる。

 フェリックスが、サフィーにフランス語を教えるために使った教材は、ヴォルネーの『諸帝国の没落』だった。怪物は壁の隙間からこの授業をうかがいながら、自分もいっしょに勉強する。怪物はヴォルネーの著書をとおして、語学だけではなく、人間の歴史や風習、政治、宗教などのあらましについても学ぶ。怪物は授業で聞いた具体的な内容について、次のように列挙する。
 アジア人の怠惰さ、ギリシア人の並はずれた才能と精神の活発さ、初期ローマ人の戦争とすばらしい美徳----そのあとの堕落----かの大帝国の衰退、騎士道やキリスト教や王たちのことを、おれは聞いて知った。アメリカ側の半球が発見された話を聞いたときには、その先住民たちの不運な運命に思いを馳せて、おれはサフィーとともに涙を流した。  (第13章)

 ここでも、アジア人の劣性とヨーロッパ人の先天的・文化的優性とが対比されている。西洋人の侵略によって迫害されたアメリカ先住民の話を聞いたとき、サフィーと怪物はなぜ涙を流すのだろうか。それはたんなる同情の涙ではなく、彼らの境遇とアメリカ先住民の運命に重なり合う点があることを暗示している。自ら第三世界の出身者であるサフィーが、植民地化される側に立脚した見方をするのは、自然であろう。怪物もまた、「黄色」の皮膚に「黒光りした髪の毛」(第5章)という黄色人種のような風貌を持ち、あらゆるヨーロッパ人から排斥される。したがってその涙にも、ポストコロニアル的な含みが読み取れるかもしれない。

帝国主義的侵犯
 フランケンシュタインの友人クラヴァルは、ジュネーヴの商人の息子で、少年のころから「冒険的偉業への情熱」(第2章)に駆られている。クラヴァルもフランケンシュタインと同様、偉業によって名を残したいという野心を抱くが、彼が関心を向ける方面は科学ではなく、人文系の学問である。子供時代のクラヴァルは文学的才能豊かな少年として描かれていて、青年となって大学に進学するさいには、その目的が次のように具体的に述べられている。
彼が大学に来たのは、東洋の言語を完全に習得し、それによって自分で決めた人生計画の領域を切り開こうという企てのためだった。無名の生涯は送るまいとした彼は、冒険心を発揮する場として東方に目を向けたのだ。ペルシア語、アラビア語、サンスクリットに、彼は注意を引かれていた。  (第6章)

クラヴァルの学んだ学問領域が、東洋の語学・文学であったことはわかるが、彼の「冒険的偉業」が具体的にどのような形で達成されようとしているのかは、曖昧である。スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak)は、ここで用いられている表現は、「伝道的なものというよりも、むしろ企業家的」であると指摘する。

 クラヴァルが大学で勉強を始めてから約2年後、彼とともにイギリスを旅行したフランケンシュタインは、友について次のように語っている。
私はクラヴァルのなかに、かつての自分自身の姿を見る思いだった。彼は好奇心に溢れ、経験や知識から学ぶことに熱中していた……彼はかねてよりあたためてきた企ても進めていた。彼の計画とは、インドに行くことだった。インドの諸言語やその社会についての知識があるので、自分は実際にヨーロッパの植民地建設と貿易の発展に貢献できると信じていたのだ。イギリスでしか計画を推し進めることができなかったので、彼はずっと忙しかった。 (第19章)

ここでは、クラヴァルの企てのなかに、インドでの植民地建設が含まれていることが明かされ、帝国主義的色彩が加わってくる。「イギリスでしか計画を推し進めることができなかった」のは、その計画が東インド会社と関連があったからで、彼の「冒険的偉業」が純然たる文学的なものではなかったことを示していると言えるだろう。そして彼は、インドへの出発を目前に控えて、怪物に殺されてしまうのである。

 クラヴァルのインド行きをはじめ、フランケンシュタインの人造人間製作やウォルトンの北極探検もまた、ヨーロッパ人による侵犯行為として位置づけるならば、この作品における帝国主義的侵犯はすべて挫折に終わるのである。(つづく)

文芸評論パスティーシュの見本帳(1)

Case Studies in Contemporary CriticismというシリーズがBedford/St. Martin's社より長く刊行されていたことがあります。古典名作へ「この立場の批評家なら、こんな風に評するだろう」と延々羅列するシリーズです。
対象古典をちょっとかいつまむと、ジョイス『ザ・デッド』、ブロンテ『ジェーン・エア』、ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』、ホーソン『緋文字』、メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』....などなど。
どうもチョイスがあやしげです。ゴス腐臭すら漂います-----一応シェイクスピアの『テンペスト』『ハムレット』などもやっては、おりますが。
これはつまり、一見生真面目な文学評論風ですが、その実、文学研究者のパスティーシュ/批評なぞりだと思えばよろしい。編者側に、だいぶお遊び要素が強いです。

4560046344.jpg日本にもこういう真面目に遊んでいる本はないものかと探してました処、『知の教科書 批評理論』で、少し文例を創作され遊んでいる箇所がございました。
しかしどうも食い足りません。例示にパロディ臭が濃いうえ、なぞりの工夫がやや薄い。
もう少しパスティーシュの味つけの濃いものはないか折あるごとに漁っておりましたら、モロにCase Studies in Contemporary Criticismを抜書き翻訳した新書がありました。
こちらを紹介し、Case Studies in Contemporary Criticismシリーズの楽しさを、少しご紹介できればと思います。

0333914384.jpg書名は『批評理論入門 --『フランケンシュタイン』解剖講義--』
この本、前半「小説技法篇」はデイヴィッド・ロッジの『小説の技法』を翻案。後半「批評理論篇」は『Frankenstein--Case Studies in Contemporary Criticism』の翻案です。
ローリング・ストーンズ「サティスファクション」のサビとディープパープル「ハイウェイ・スター」のサビを足し「ロックな1曲作ったぜ!」と豪語するような、図々しさ漂う1冊ではございます。
著者ご本人もあとがきで自らネタバレされていらっしゃるので、まあ、その図々しさはこのサイトではよしとしましょう。

まずは、腐った女子ご用達の「クイア風批評」。ご丁寧にも、ゲイ版とレズ版をご用意。
Queer_Studies.jpg
クイア:ゲイ批評風
『フランケンシュタイン』は、男同士の関係を中心に描いた作品である。語り手ウォルトンも、姉を慕ってはいるが、何よりも欲しいものは友人だと言っている。趣味が一致し、自分を見守り励ましてくれる、共感し合える男友達を持つことに、彼は憧れる。異性との恋愛に関する経験や憧れについては、彼はいっさい語らない。
海上でフランケンシュタインに出会ったウォルトンは、たちまちこの新しい友に夢中になり、「その愛は日に日に募る」(第四の手紙)と語っている。

 ゲイ批評的観点から見てもっとも注目すべき関係は、ヴィクター・フランケンシュタインとヘンリー・クラヴァルの関係であろう。怪物を造った翌日、熱病に倒れたフランケンシュタインは、そのまま意識を失い、数か月間寝たきりになる。その間ずっとクラヴァルが、ひとりきりでフランケンシュタインに付き添う。彼は大学に出てきたばかりだったのに、自分の勉学を打ちやって、友の看護に専念したわけだ。そのうえ彼は、フランケンシュタインの郷里の家族に心配をかけまいと、容態を隠しておいたという。「クラヴァルは、私にとって、自分ほど気のきく優しい看護人はいないということを知っていた」(第5章)とフランケンシュタインが述べるとき、なにか二人の関係には特別な親密さが含まれているように響く。
回復したフランケンシュタインは、友に向かって叫ぶ。「最愛のクラヴァル、きみはなんて親切で、ぼくによくしてくれるのだ」(第5章)と。フランケンシュタインは、エリザべスのことを「愛しい愛しいエリザべス」(Dear, dear Elizabeth)と言ったりしているが、彼女にさえ、「最愛の」(Dearest)いう最上級の呼びかけはしていない。

 フランケンシュタインは、クラヴァルを大学の教授たちに紹介する義務を果たしたあとも、彼とともに机を並べて文科系の学問を学んだりしながら過ごす。「見知らぬ土地にクラヴァルをひとり残してゆきたくない」(第8章)という理由から、彼はずるずると滞在を引き延ばし、帰郷を延期するのである。
 帰郷の日取りが決まる前に、クラヴァルの宴で、二人はインゴルシュタット周辺巡りの徒歩旅行に出かけることになる。クラヴァルとともにたっぷり2週間、心ゆくまで楽しい時を過ごしたフランケンシュタインは、心の重荷からすっかり解放され、歓喜に満ちて叫ぶ。「すばらしい友よ!きみはなんて心からぼくを愛してくれたのだ!きみは、なんとかしてぼくの心を、自分と同じ高さまで引き上げようとしてくれたのだね」(第6章)と。このあたりの箇所は少し奇妙である。これまでフランケンシュタインに、故郷の家族にもっと便りを出すようにと勧めていたクラヴァルが、ここで彼を旅行に誘い出すのは、一貫性に欠けると、モーリス・ヒンドルも指摘している。まるでクラヴァルは、フランケンシュタインを家族から遠ざけようと「誘惑」しているようだと。

 フランケンシュタインが怪物との約束を果たすために、イギリスへ旅するさいにも、エリザべスの気遣いによって、クラヴァルが同行することになる。こうしてふたたびフランケンシュタインとクラヴァルは、二人きりで半年間に及ぷ思い出の旅行をする。友と別れたあと、フランケンシュタインは女の怪物を造る仕事に取りかかるが、完成間際にこれを解体してしまう。これに対して、怪物がどういう復讐の仕方をしたかは、興味深い。怪物が殺したのは、フランケンシュタインと血のつながった父でも弟アーネストでもなく、クラヴァルとエリザべスだった。つまり怪物は、自分の性的伴侶を奪われた苦悩をフランケンシュタインに味わわせるために、フランケンシュタインの同性と異性の伴侶を選んだのではなかったか。

クイア:レズビアン批評風
 『フランケンシュタイン』この作品では、女性同士の関係は一見希薄に見える。しかし、これをレズビアン的観点から読もうとする試みもある。そのさいもっとも注目される人物は、フランケンシュタイン家の召使いジャスティーヌだ。作品中で、異性との関わりのない女性は、怪物の隣家の娘アガサと、ジャスティーヌの二人だけである。しかも、アガサには夫や恋人はいなくても、父や兄との関わりがあるのに対して、ジャスティーヌは男性との関係においていっさい描かれていない。
彼女は母モリッツ夫人に苛められ、フランケンシュタイン夫人に救い出されて、同家の召使いとして引き取られる。ジャスティーヌは、エリザべスの言によれば、女主人キャロラインに憧れ、その言葉遣いや物腰をそっくり真似さえしていたという。

 そしてジャスティーヌは、ウィリアム殺しの濡れ衣を着せられ、有罪判決を受ける。処刑を前にして彼女がエリザべスと会話を交わす場面は、ことに同性愛的雰囲気が濃厚である。エリザべスはジャスティーヌに、「いっしょに死にたい」、彼女なしには生きてゆけないと言う。ジャスティーヌのはうは、「かわいいお嬢様、最愛のエリザべス、私の大好きなただひとりのお友だち」と呼びかける。これらの熱烈な言葉は、たんに生死の別れを前にした興奮状態によって発せられたものでほなく、そこに同性愛的な情念が含まれていると、レズビアン批評家フラン・マイケル(Frann Michel)は見るのである。

この作品が書かれた当時、女性同士の親密な関係はどのように見られていたのだろうか。母と娘、姉妹、同じ階級の女友達など、似た者同士の場合は、精神的で純粋な関係として許容されていたのに対し、階級や人種など社会的に異なる立場の女性同士の関係は、不純で淫らなものとして嫌悪されていた。そのような時代背景において見るとき、自分とは階級の異なるキャロラインやエリザべスに愛着を抱くジャスティーヌは、当時の読者に疑惑を抱かせかねない人物であった。そうすると彼女は、たんなる冤罪の犠牲者としてのみならず、同性愛という不浄の罪ゆえに、死んでも当然の女性だということになる。
 現に、作者の夫パーシー・シェリーは、エリザべスが手紙のなかでジャスティーヌについて語っている部分に、次のような書き込みを加えている。
 私たちの共和国制度の慣習は、周囲の大きな君主国に比べて、ずっと単純で幸福なものです。だから、ここに住む人々の階級の差は、よそほどはっきりしたものではなく、低い階級の人も、それほど貧しくて蔑まれているというわけではありませんし、態度も品行方正です。ジュネーヴでは召使いといっても、フランスやイギリスの召使いとは、わけが違います。  (第6章)

 この部分はふつう、自由思想家パーシーによるイギリスの階級制度批判として読まれる。しかし、ジャスティーヌとエリザべスの階級差を緩和することによって、二人の関係が同性愛であるという印象を避けるために、パーシーが妻の原稿に手を加えたという可能性も、否定できない。
 少なくともパーシーとメアリは、身近にレズビアンの存在を知っていた。それはほかならぬメアリの母ウルストンクラフトであった。ウルストンクラフトには、自分より階級の低いファニー.ブラッド(Fanny Blood)という親しい女の友人がいたが、その関係は同性愛的なものであったと推測されている。ウルストンクラフトの半自伝的な小説『メアリ』(Mary, 1788)に描かれている女主人公メアリとその友アンの関係も、かなり同性愛的雰囲気が濃厚である。もちろんこの小説を読んでいたパーシー夫妻は、当時のレズビアン恐怖症に対して、かなり鋭敏になっていたにちがいない。(つづく)

マニュアル形式はお笑い本のセールス救世主かも?(4)

(前話はこちら)
既存の宗教を焼き直そう
 前項ではいちからオリジナルの神を作る方法を説明しました。しかし、「機能的な神を作るって、なんだか難しそうだなあ」と感じた人も多いと思います。ですが、まだ諦めないで下さい。実はもっと簡単なやり方もあるのです。それが既存の宗教を焼き直して利用する方法です。
 というのも、実際のところ、新興宗教にしろ伝統宗教にしろ、いちから神も教えも作ってやっているところはあまり多くありません。仏教、キリスト教、イスラム教の世界三大宗教も、どれも従来からあった神を使っているだけで、教祖が自分で神を作ったわけではないのです。教祖がオリジナル神を作った大手伝統宗教はアフラマズダを作ったゾロアスター教くらいでしょうか(これにしても元からあったヴァルナ神と同一という説もあります)。
それよりは既存の宗教から発生して、教えにオリジナリティを加えたり、一部を否定したり、先鋭化したりして、自分たちの宗教としてやっている方が遥かに多いのです。
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 つまり、社会が常に正しいわけではないということです。古代ユダヤ社会で徴税人や売春婦たちが受けていた職業差別は、現代からするとあってはならないことです。しかし、当時のユダヤ社会で社会的であろうとすれば、彼らを差別せざるをえませんでした。社会的であるというのは良いことばかりではないのです。
新興宗教はそんな硬直化した社会に対して、反社会的な鉄槌を下す役割もあるのです。「うるせえ、お前らがどう言おうとオレはこれが正しいと思うんだ!」というのが新興宗教なのです。ですから、宗教の役割は社会に迎合することではなく、むしろ、社会通念に逆らってでも、正しいと信じることを主張することなのだと考えて下さい。

 これを現代に置き換えて、もう少し具体的に言及しましょう。
 皆さんは教祖となって人々をハッピーにするのがお仕事ですが、そもそも、現在不幸な人というのは、社会の提示する価値基準に照らして不幸なわけです。つまり、貧乏だとか、恋人がいないとか、出世できないとか、そういうことで不幸になっているのですから、あなたは彼らに社会とは別の価値基準を提供すれば良いのです。「お金なんかない方が幸せだ」「家族など修行の妨げである」「世俗の出世に何の意味があろうか」などなど。どれも反社会的ですが、こうすることで社会的弱者である彼らを、別の価値基準、つまり、あなたの提供する価値基準でハッピーにすることができるのです。

 ですから、あなたのすぺきこととは、①社会の基準で幸せになれない人を見つける、②反社会的な基準を与えてその人を幸せにする、ことだと考えて下さい。一例を挙げるなら、ニートを幸せにする価値基準などを考えれば良いでしょう。これには仏教が参考になるはずです。
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このあたりから筆者の生真面目ぶりを、そろそろ伺わせます。
核心を突き、決してハズしていないけれども、「面白くて笑えるか?」の視点で申せば、笑えるかどうかの個人差が大きくなってまいります。太っている人を指し「デブだ!デブだ!」と囃したてる様を笑えるかたなら、この文章でも、含んだせせら笑いをなさる余地がおありかもしれません。
もうひと盛りふた盛り、ワタクシのようなアホでもクスリと笑えるくすぐりを盛っていただきたい処でしょうか。

書名からも察せらるるように、本書は『完全自殺マニュアル』を意識しているようです。著者はパンク好きとのことですので、シンパシーも感じるのかもしれません。
また、文はこびや読者への語りかけは『大人養成講座』ら石原壮一郎のマニュアル体裁エッセイ本を下敷きとする箇所も大きい。

マニュアル体裁を採るネタ本は、不況時に関わらず散発的ながら定期的に売れる----この事実は、わたしどものようなお笑いテキスト好きにとり、朗報やもしれません。今後より一層、精緻化が見込め、英米圏ジョーク本とは異なる日本語文化圏独自のガラパゴス様展開が開ける可能性も秘めています。後人のさらなる奮迅へ、少しだけ期待しましょう。ほんの少しだけ。
「隅々までマニュアライズの浸透した現代日本へ、わずかながら風穴を開けたい。そんな思いで渋々筆をとり...」とかなんとか、それらしい発刊体面も整えやすいしな。

とはいえ、文末を「~してください」「~しましょう」に仕立て揃えただけのクズ本を濫造し、長く不況に喘ぐ出版業界のさなか、書籍問屋ご関係各位の紙クズ在庫をより増長する可能性もまた、大いにございます。
  

マニュアル形式はお笑い本のセールス救世主かも?(3)

(前話はこちら)
教義を作ろう
 教祖を目指すあなたが最初になすぺきこと。それは教義の作成です。
 と言うと、あなたはすぐに、「オレ、文章へタクソだけど教義なんて作れんのかなあ。やっぱり教祖って難しいや」と思うかもしれませんが、心配はいりません。文章に自信がなければ、最初は頭の中で作っておいて、その都度、口頭で弟子に指示するだけでも全然構わないのです。放っといても後で弟子たちが巧いこと成文化してくれます。仏教もキリスト教もそうやってきたのですから安心して下さい。

 なお、あなたがある程度教祖として大成した後は、ふらふらしたり、適当なことを言ったりするだけでも、それが教義となるので大丈夫です。あなたの行為に隠された深い真意は弟子たちが一生懸命考えてくれます。そうなればあなたは自然体で生きていくだけで良いのですから楽ちんですね。釈迦もお腹が痛くて寝てるだけで、その姿が大仏になったくらいです。また、あなたの言ってることが前後で少々食い違っていても気にしないで下さい。これも弟子たちが適当にアレンジして辻凄を合わせてくれます。
 ですから、少しくらいのミスは気にせず、勇気を出して初めの一歩を踏み出して下さい。最初から完壁にできる教祖なんていません。ゆっくりでいいのです。
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 神がいるとどんな良いことがあるのでしょう?一つ例を挙げるならば、「うまくいかなかった時に神のせいにできる」というのがあります。
たとえば、現代日本には「努力すれば夢はきっと叶う」という風潮がありますよね。しかし、あれは現代日本人の勘違いです。努力したってダメな時はダメです。現実主義者のマキャベリだって「必要なのは力と運だ」と言ってます。現実はそんなもんです。
 努力したってダメな時はダメ。では、そういった理不尽にぶつかった時はどうすれば良いのでしょう?
 そう、ここで神です。もし、あなたが全知全能の神を信じていれば、「まあ、これも神の思し召しだろう」と神のせいにできるのです。誤解している人も多いと思いますが、神は別に努力した人すべての夢を叶える必要なんてありません。良い結果など出なくてもー向に構わないのです。ただ、信者が「神は絶対間違えない。必ず正しいことをする」と本気で信じてさえいれば、どんな結果が出たとしても「これが神の意志なら間違いない」と肯定的に受け入れられるのです。神の役割はむしろここにあります。神は困っていれば助けてくれる便利なお助けキャラではなく、困っていること自体を肯定する存在だと言えるのです。

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なにが「ゆっくりでいいのです」なんだか。
ところで文中、なぜ急にマキャベリ?と違和感を持ち後日調べたところ、同著者でマキャベリ解説本をかつて上梓されておられるそうです。

このあと本書は、新興宗教興立にあたり必要な教義や教団運営など、さまざまなノウハウを案内しはじめます。
その編纂構成は英米ユーモア系ハウツーもの本とほぼ同様フォーマットです。だが日本語圏においては英米語圏ほどハウツーネタ本フォーマットは確立しておらず、残念ながら書籍構成上の不備・不足は否めません。
この傾向は本書内後半に進むほど顕著です。次第にばかばかしさをエスカレートさせる英米系ハウツー・フォーマットに比し若干の失速感はあります。

エスカレーションの一例として、たとえば先の『The Gospel of the Flying Spaghetti Monster』ならば「あらゆるドグマを拒絶することを教義とする」と称した手前、論述(?)後半には
    スパゲッティ・モンスター神が存在しないという明確な証拠さえ提示されれば
    スパゲッティ・モンスター神が存在しないことを否定しない
などとストリッパー工場やビール火山描写の悪ノリとともに、論理破綻のおかしさが出てきます。論理構造都合で、冒頭定義のご本尊否定を自らしてどうする(笑)。おまえは龍樹か。
英米系ジョーク本は1冊内のネタ本構成フォーマットや伏線回収のお約束ごとが割に整っているようで、かなりのクズネタ本でも、それなりに後半へ誘導します。

かたや邦訳に目を向けますと、ラッセル・ベイカーやマイク・ロイコ級の短編集であっても、中盤以降飽みがちな編纂が見られます。察するに編者のネタ本セオリー情報収集力や一冊のネタ本構成への助言あたりで、まだまだ改善余地をとりこぼしている気がいたします。
本書へ「後半の教団運営のあたりから、あんまりおもしろくなかった」の類の感想がオンライン上に散見するのも、おそらく同じ事由です。構成フォーマットがまだまだこなれずグズつく日本語圏お笑いネタ本フォーマット不備に起因する処が大きいのでしょう。加えて新書ならではの文字数制約都合もありましょう。
後半も個々気の利いたくすぐりもかなりあり、ネタの散りばめぶりには、もったいなさすら感じます。

などと御託つべこべ申しておりますが。
日本語圏においてこのクラスのいんちきハウツー本が刊行され、そこそこのセールスをとれるケースもあるようです。お笑いテキスト好きにとり、歓迎すべき潮流だと思います。

またオンライン上の感想文では「調べかたが浅薄だ。説得力がない」の類も、割と散見しました。おそらく本書『完全教祖マニュアル』へ求める内容がワタクシのようなネタ本要素でないかたと、お察しします。
そのようなかたは本書よりも橋爪大三郎や寺社経営経理本、あるいは
   『このディベートで邪教を論破!』
   『こうすればあなたのお説法に信者はうなずく!----ビギナー僧侶入門』
の実用書類を、むしろご精読すべきかと存じます。(つづく)
  

マニュアル形式はお笑い本のセールス救世主かも?(2)

(前話はこちら)
 みなさんは、人に尊敬されたい、人の上に立ちたい、人を率いたい、人を操りたい、そんなことを思ったことがありませんか? でも、自分には才能がない、学がない、資産がない、そんなのは一部のエリートだけの特権だ、等と理由を付けて夢を諦めていませんか? 確かに、これらの夢を叶えることは非常に難しいことです。ですが、悲観することはありません。何も持たざるあなたにも、たった一つだけ夢を叶える方法が残されています。そう、それが教祖です! 新興宗教の教祖になれば、あなたの夢は全て叶うのです!
「でも、教祖って難しいんじゃないの?」
「霊感を受けたり、悟りをひらいたりしないと教祖ってなれないんじゃないの?」
 いえいえ、それは全くの誤解です。教祖は決して難しいものではありませんし、特別な才能や資格も要りません。たとえば、べツレヘムで生まれた大工の息子も、30歳を過ぎてからのたった3年間の活動で、世界一有名な教祖としてサクセスしたのです! しかも、彼には本書『完全教祖マニュアル』はありませんでした。本書を手にした皆さんは、彼よりも遥かに有利なスタートを切ることができるのです。自覚して下さい。あなたのサクセスライフは本書を手にした今このとき、既に始まっているのです!
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仏教伝来から1500年もの間、日本中の一流のクリエイターたちが腕を競って、「仏像」という等身大フィギュアを作り続けてきたのです。さらに天平時代には国家が全面協力して奈良に15メートルもの巨大な慮舎那仏フィギュアが作られています。金も人材も芸術的才能も惜しみなく投入されているのです。それが元を辿れば、すべて釈迦というたった一人の教祖のアイデアなのです!
 想像して下さい。あなたのアイデアの下、1500年以上の間、一流の芸術家たちが人生を賭けてあなたのアイデアを形にし続ける姿を。こんな素晴らしいことが他にあるでしょうか! どれほど成功した社長だって、これほどの影響力を及ぼすことなんてできません。自分の思想が何百年、何千年先も影響を与え続け、多くの人々を魅了し、彼らを幸せにするだなんて、考えただけでロマンティックで心が躍りますよね。

 いかがでしょうか。教祖はただお金が稼げるだけではありません。あなたを信じる人々をハッピーにし、そして、彼らからの尊敬も得られる素晴らしい職業なのです。お金さえあれば人生幸せなわけではありません。人々に必要とされ、人々から尊敬され、人々に影響を及ぼしてこそ、あなたの人生は充実するはずです。つまり、教祖こそが、あなたの人生を最も幸福なものにしてくれる、最高のライフスタイルなのです。
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 また、日本人の宗教アレルギーは、逆に考えると、付け入る隙であるとも言えます。というのは、彼らは宗教を頭ごなしに嫌うあまり、宗教に対して無知なのです。また、戦前の国家神道の反動で、戦後は宗教について教育で触れることがタブー視される傾向にあります。実際、学校でも高校までは宗教のことなんてほとんど教えてくれませんよね? しかし、知識がないということは、つまり、耐性がないということです。彼らは無菌室育ちで免疫がないのですから、これは狙い目というわけです。

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こちらは、「新興宗教を興そう」という主旨の序文箇所の一部です。
先の体験談と同様スタイルの浅薄で扇動的な宣伝表現を随所に盛り込み、笑いを誘います。「慮舎那仏フィギュア」などはこの箇所の白眉。
さながらしゃべりの立つセールスマンの催眠商法トーク・自己啓発セミナー勧誘よろしく、いかがわしさ十二分です。筆者・架神恭介/辰巳一世ご両氏が最も得意とする表現でいらっしゃるのでしょうか。(つづく)
  

マニュアル形式はお笑い本のセールス救世主かも?(1)

ここ数年の宗教ネタ読み物においては、ボビー・ヘンダーソン『The Gospel of the Flying Spaghetti Monster』が出色の出来であることに、異論は少ないでしょう。
当時、流行に乗り邦訳も出たらしいです。
しかしインテリジェント・デザインの思いつき臭ぷんぷん漂う理屈が、そもそもの騒ぎになっていない日本。
スパゲティ・モンスター教のロジックのばかばかしさが、面白がられるはずもありません。
案の定、居酒屋コンパノリの馬鹿騒ぎで「ラーメン」「ラーメン」を連呼し、やがて間もなくすたれました。ばーか、ばーか。

ムーブメントとしての悪ふざけはさておいても、『The Gospel of the Flying Spaghetti Monster』は学術研究発表の編纂体裁を採った点が、とてもおかし味を増幅しています。
文体・論調はあくまで一般向け学術書、だがその論旨もネーミングもただのダジャレ。
『The Gospel of the Flying Spaghetti Monster』を読んだとき、最初に思い出したのは、東大出版会『知の技法』でした。掲載内容はまるで異なりますが、一般向け学術概要紹介時の編集作法がよく似通っていたからでしょう。
かたやこのテのそれらしい宗教理屈をでっちあげ茶化す手法は、日本ではウケが悪く難しいだろうなあ、と思ったものでした。

と、その矢先。
少し異なる切り口での宗教ネタ本が、日本でも刊行されていました。

書名は『完全教祖マニュアル』。2009年刊行。
このサイトのように、本文抜書きをし、さも自分で書評紹介したようなつもりの図々しいネットユーザーへ向け、本書は巻末にわざわざ紹介文をご用意いただいています。これらを用意する態度から察しても、この本が市況・世事を茶化す気、満々です。
では著者の配慮へ深謝しつつ、遠慮なく引用させていただきますと――

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本書の読者から続々と感謝のお手紙が届いております!

「人生が一変した!」  一之瀬謹和さん (25歳)
 私が「教祖マニュアル」を読んだのは22歳の時でした。当時、大学四年生だった私は就職活動に敗れ、来年度からの無職生活を思って途方に暮れる日々を送っていましたが、そんな私を心配してか、母が本書を手渡してくれたのです。最初は「面倒くさいなあ」「教祖になんかなれるわけないじゃん」と思っていた私ですが、本書を読み進めていくうちに、「こんな簡単に教祖になれるのか」「これなら私でもできるかもしれない」と思うようになり、大学卒業と同時に一念発起し、辻説法から始めてみたところ、わずか一年の間に信者数万人、年収2000万円の勝ち組教祖になることができました。本書の教えにそのまま従っていただけなのに、こんな簡単に大成功できるなんてビックリです!母もとても喜んでくれています。
 また、これまで私は女性からゴミムシを見るような目で見られていましたが、今では多数の女性信者に崇められ、かしずかれる毎日です。初めて恋人もできましたし、童貞も卒業できました。信者たちから毎日感謝の手紙が送られてきて、とても幸せな日々を過ごしています。こんなことなら、もっと早くから教祖になれば良かった、と後悔することしきりです。
あと、母の勧め通り、本書を10冊買って神棚に飾っておいたら、その月のうちに信者数が倍になったことがありました。本当に霊験あらたかな本だと思います。
それと、ペットの猫の癌も治りました。
本書の著者二人には感謝してもしきれません。私の人生を変えてくれて本当にありがとう!


「わずか1ヶ月で信者が3倍に!」 前田雄亮さん(52歳)
「えーっ、こんな旨い話があるわけないじゃないか!」。それが本書を手に取った時の私の第一声でした。私は10年前に教祖になったものの、鳴かず飛ばずの売れない三流教祖で、昨今はとみに信者数も減退し、本気で引退も考えていました。そんな私が書店でたまたま手に取ったのが『完全教祖マニュアル』。本書に書かれている事柄は理に適っているように見えましたが、しかし、現役の教祖として活動してきた私には、「こんな簡単なことで巧くいくのかなあ」と半信半疑の気持ちが拭えませんでした。
 それがどうでしょう! 本書の教えの通りに実践してみたところ、目に見えて信者数が増えていくではありませんか! ピーク時には1ヶ月の間に信者数が3倍になったことさえあるのです! まるで奇跡か魔法を見ているようで本当にビックリしました。同業者の教祖仲間たちも、「一体どうやったんだ?」と興味津々で聞いてくるので、最近では黙って本書を差し出すことにしています。
 振り返ってみると、かつての私は教祖として信者たちに何をしてやれるかなど考えず、ただ闇雲に大地震予言ばかりを繰り返していました。こんな自己満足教祖では、信者が集まらないのも道理だったと思います。多くの人たちは、かつての私のように自己流で教祖をやっていると思いますが、自己流ではそのうち限界が来るはずです。有名教祖の成功例も、たまたま時代にマッチしただけに過ぎず、参考にはなりません。ですが、本書は極めて科学的なマニュアルであり、普遍の真理であるので安心して従うことができるのです。
私は今からでも自分の教理を、本書に準じたものに作り替えようかと真剣に考えている程です。昔作った教理を見直していると、自己満足に過ぎなかったかつての自分が恥ずかしくなってきます。今では信者の皆さんの幸せそうな笑顔を見るのが毎日の楽しみです。
『教祖マニュアル』は本当に素晴らしい本だと思います。


「神の意志を正しく伝えられた」 脇雄太郎さん(33歳)
 私が神の啓示を受けたのは27歳の時でした。神から直接この世界のあり方に対する正しい知識を授けられた私は、当然それを伝えるぺく人々に語りかけていったのですが、結果は惨憺たるものでした。3年後に起こる地球崩壊の脅威を私が熱烈に語っても、多くの人は私を無視し、ある者は石を投げ、通報しました。当然、私は人々を恨みましたが、しかし、今にして思えば、問題は人々にではなく、神の意志を効果的に伝えられない私自身にあったのです。
本書に出会うまでの私は、本当に行き当たりばったりな教祖だったと思います。迫害にあってはくじけ、試練にあってほ挫折し、論争には負け、失うばかりの日々……。こんなことなら、神の声なんて聞けなければよかったのにと思うことさえありました。神はなぜこんな無力な私に使命を授けたのか。私には荷が勝ちすぎているのではないか。神を呪う日々でした。
 そんな折、出会ったのが本書です。本書の科学的メソッドの数々は、私にはなかったテクニカルな補強をもたらしてくれました。その後の私の成功については新聞などをご覧になればわかりますから省略いたしますが、あのとき、本書がなければ、私は神を裏切っていたかもしれません。本書は私ばかりでなく、私が救い、そして私がこれから救うたくさんの人たちをも救ってくれたのです! ありがとう教祖マニュアル!

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いかがわしい。
じつにキナ臭ささがぷんぷん漂ってまいります。
ダイエット商品や副業ビジネスの宣伝テキストをそのままに、「新興宗教」へテクニカル・タームを差し替えただけのこの紹介文からも、眉ツバ感が推し量られるというもの。25歳でも33歳でも52歳でもまるで文章表現に差のない作為的な感じも、さもありなん。

ところでこの『完全教祖マニュアル』、ネタ本体裁ながら、笑いを誘うためのクスグリへは、とくに配慮されていません。斜に構え
 「だいたいこんな感じだよな?、な?
  ライフハックとかぬかし、周りのヤツらを出し抜こうと小ざかしく振舞うお前らには
  この程度でも面白いだろ?」
な姿勢が見え隠れします。当世の日本語文化圏ではクレームの出にくい無難なアプローチでは、あります。(つづく)
  

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Directed by Donald Mac
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